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「復帰50の物語」。きょうは沖縄が長く慣れ親しんだ左ハンドルに別れを告げ、車の進行が左側に変更されたいわゆる「730」の物語です。

目に見える復帰を感じさせた最後の事業でしたが、そこには多くの苦悩がありました。

「沖縄、復帰後。展」県立博物館・美術館で開かれている企画展。沖縄が本土に復帰した50年を振り返るもので、当時の様子を伝える貴重な資料や映像が展示されています。

その一角に、一夜にして交通方向を右から左に変えたいわゆる「730」に関する展示があります。

1978年7月30日、朝6時。アメリカ統治の象徴が消える瞬間を一目見ようと多くの見物人が集まり、辺りにサイレンが鳴り響く中、ついに沖縄の左側通行が始まりました。

県警交通規制班 班長(当時)久高弘さん「切り替えの午前6時間に合うかどうか心配したが、ようやく間に合わせることができて僕らは大きな喜びを味わった」

そこには慣れない左側通行に奮闘する運転手も。

沖縄バス運転手(当時)神谷正さん「バス停が(車体に)くっつきすぎてミラーが当たって割れたりとか、常に頭は左ということで自分に言い聞かせていましたね」

沖縄の本土復帰を象徴する一大事業。戸惑いながらも奔走したあの時の人々の苦悩が見えてきました。

復帰50の物語 第29話「730」交通方法変更 人々の苦悩

アメリカ統治の下、車の交通ルールも長らくアメリカと同じ右側通行だった沖縄。本土に復帰してもしばらく続きましたが、県民から反発の声も上がる中、国は「一国一交通制度の遵守」を理由に、1978年7月30日に左側通行に変更することを決めます。

一夜にして交通方法を変更するという前代未聞の事業に向けて、大規模な準備を進めていた県警。全国のべ2800人の警察官の応援を受け、7月30日に向けた作業が大詰めを迎えていました。

当時、交通規制班の班長として作業に携わった久高弘さん。標識や表示を前もって準備、わずか8時間のうちに一斉に取り換える独自の秘策をあみだし、一夜にしてその偉業を成し遂げました。

久高弘さん「溶着式のペイントでバーナーであぶって(新たな標識を)塗るわけよ。まだ左側通行じゃないからカバーしておかないといけない。黒いテープを張って変更時にバーナーであぶってはぎとると」

当日は台風の影響で雨が降りましたが、過去数十年に渡る天気データを集め事前のテストを何度も繰り返していたことから業務を順調に遂行。作業が進む中、久高さんはある思いを抱えていました。

久高弘さん「世界の交通方法(右側通行)に習った切り替えをするというのが本当だと思う。そうすると(本土が)沖縄の交通方法を見習ってほしかったなと思う。沖縄が犠牲になっているわけよ。すべて犠牲だ。うちなーは戦でも戦争でも交通方法変更でもさ」

復帰50の物語 第29話「730」交通方法変更 人々の苦悩

沖縄バスに勤務する神谷正さんも当時を知るひとり。路線バスの運転手として、慣れない左側通行に苦労しながら停留所を目指した記憶があります。

沖縄バス 神谷正さん「いつも走っている道ですがとても小さく感じましたねバスが大きいのでバスの感覚を覚えるのに時間がかかりました」

当時、県民の重要な足としての役割を果たすため、補償問題を巡って政府に陳情を繰り返していた県内4つのバス会社。その結果、およそ156億円におよぶ予算措置が講じられ、バス停やターミナルの改築とあわせて新車購入や改造などでおよそ1200台のバスが一気に右ハンドルに変わったのです。

沖縄バス 神谷正さん「お客さんを安全に目的地まで届けるということが頭にありながらの交通変更、車内転倒防止、各バス停の時刻をちゃんと守るということで一番気をつけていました」

あの日からまもなく45年目。導入された730バスは、今も2台が現役で走り続けています。次第に見かけなくなった網棚や丸みを帯びたスピーカーなど、車体はすべて当時のまま。そのどれもが貴重なものです。

復帰50の物語 第29話「730」交通方法変更 人々の苦悩

沖縄バス 神谷正さん「30年ぶりですね。懐かしいですね。バス停が(運転席の)反対側にあって、特にバス停では標識があるのでだいぶ気をつかいましたね」

沖縄の交通変更を巡る730の物語。時が経ち記憶が薄れていく中にあっても、その歴史と当時の人々の思いを今に伝え続けています。

久高弘さん「沖縄の交通の実態を見て昔はどうだったとか思いをはせて、今の人々がその時に苦労した方法や人々のことも思いやってほしいなと思う」

沖縄バス 神谷正さん「これから半世紀何年何年と整備士に整備してもらって(ずっと)あってもらいたいなという希望ですね。たまに月に1回2回でも(運航してもらえたら)いい」

沖縄の本土復帰の総仕上げとも言われた交通方法変更の事業でした。一夜にして、すべてが入れ替わったあの日から今月30日で、44年をむかえます。