63年前の宮森小ジェット機墜落事故の惨状を、アメリカ軍基地の中で知ったウチナ-ンチュがいました。きょうの復帰50の物語は、ひとりの基地従業員の記憶をたどります。
元基地従業員 山内盛源さん「本当に一瞬のうちに、子供たちがやられてっていうことを思うとですね、もう怒り心頭というか」
63年前のきょう、嘉手納基地の中で、ひとりの青年が、やり場のない怒りに震えていました。ウチナ-ンチュが締め出された暗室の奥…印画紙に浮かびあがったのは、地獄の光景だったのです。
元基地従業員 山内盛源さん「被写体っていうのはもう、とても人間の…人間とは思えない」
北谷町の山内盛源さん。嘉手納基地で写真や映像の貸し出し業務に従事していました。写真研究所と呼ばれる場所では、5~6人のウチナ-ンチュが、アメリカ軍が撮影した写真の現像処理にあたっていたといいます。
元基地従業員 山内盛源さん「印画紙から薬品を取り除くために洗浄する作業があってね。大きなドラムの中にそれを放り込んでそれを洗う。主に日本人のウチナ-ンチュの従業員がやってましたね」
63年前のきょう、研究所に異変が…。午前にあわただしく出動した写真班が、2時間ほどで戻ってくると、『沖縄の従業員は休むように』と、上官から言い渡されます。
元基地従業員 山内盛源さん「いつもその作業する従業員、ウチナーンチュには休んでおきなさいと。できるだけ見ないように、みたいな感じでね。強制的なことじゃなかったけれども、とにかく休んどけというふうなことで。それでもちょっと非常にこっちも関心があるもんだから、洗浄する場所に行って見たりしたんですがね」
違和感を覚えた山内さんは、兵士たちの現像作業をのぞき見ることにしたのです。
元基地従業員 山内盛源さん「被写体っていうのはもう、とても人間の…人間とは思えない。火傷とかそういうもんじゃなくて、それを通り越して炭状になったご遺体をね、子供たちの遺体を見て、本当に衝撃を受けたっていうのが、あの当時の実感ですね」
印画紙に浮かび上がる、焼け焦げた子どもたちの姿。ウチナ-ンチュを締め出して現像していたのは、宮森小ジェット機墜落事故の写真でした。
嘉手納基地から飛び立った戦闘機が起こした事故。むごい惨状を目の当たりにして、山内さんは強い憤りを感じますが、その怒りをどこにぶつけていいか分からなかったといいます。
元基地従業員 山内盛源さん「とてもこの世の出来事とは思えないもう本当に悲惨な状態に、これはもう絶対許さないという気持ちになりましたよね。そうは言っても、それを外に訴えるということのできない時代のことだもんですから、みんな、心の中に秘めるというかしまっておくというような感じの、そういう時代でしたね」
当時、基地従業員は、アメリカ民政府が制定した布令の下、団体交渉権や争議権すら認められていない『無権利状態』に置かれていました。
山内さんは、戦争で父を亡くし、生き残った母と貧しい暮らしを送ってきました。高校卒業後、やっとの思いで得た職を失うわけにはいきませんでした。
元基地従業員 山内盛源さん「目には見えない圧力みたいなんもあったわけなんですよね」「人民党の演説会などに行って、この写真に収めてね、もう無差別に撮るんだけども、そこの中にこれは、基地従業員だというふうにわかれば、クビになるっていうケースもありましたね」
墜落事故から2年、基地従業員にも、団体交渉権が認められ、労働組合「全軍労」がつくられました。山内さんはその専従役員となります。
それまで差別的な扱いを受け、抑圧されてきた基地従業員の怒りは、首切り撤回を求める闘争や祖国復帰運動につながっていきます。
元基地従業員 山内盛源さん「基地もない、平和な沖縄をということで、運動を展開していたっていうことがあるわけですよね。基地がなくなったら、自分たちの仕事がもう全てなくなるということでもあるわけだから、矛盾もありながらも、二度と戦争はあっちゃいかんと」
職場を失う覚悟で、基地のない平和な沖縄を求めてきた山内さんですが、宮森以降も繰り返される米軍絡み事件・事故や、過重な基地負担に、改めて今、強い危機感を抱いています。
元基地従業員 山内盛源さん「米軍基地が本島中心にしてある。それに加えて自衛隊基地がね、先島あたりにも、各離島にも配備されているという状況は、77年前を思い起こすようなね、また戦争があるとすれば、沖縄は真っ先に地上戦が展開される、そういった捨て石的なことがまた起こるんじゃないか、最近ひしひしと感ずるわけですよ。おそろしい時代に、前夜にあるなと」