戦後77年、あすの慰霊の日は県内が鎮魂の祈りに包まれる日です。その日を前に「平和の礎」に刻まれている沖縄戦の犠牲者全員の名前を読み上げる取り組みが続けられています。
24万人あまりの名前が刻まれている「平和の礎」について改めて考えます。
ゆっくりと読み上げられていく名前、沖縄戦で命を落とし、平和の礎に刻銘されている人たちです。戦争の悲惨さを見つめ直そうと初めて企画された今回の活動には1500人以上が参加しています。
読み上げ実行委員会・町田さん「広島や長崎のはみんな知っているけど沖縄戦のこと知らない、この悲劇を本当に世界に、平和の礎の波のように世界中に広まれば戦争はなくせると思います」
12日間かけて24万人あまりにのぼるすべての名前を読み上げます。あさ5時に始まり、翌日の午前3時まで1日に2万人です。県から提供された資料には読み仮名をふる必要があり、苦労は少なくありません。
読み上げ実行委員会・町田さん「「みんなで10人・20人・100人読んでもまだ終わらないのっていう、この人の多さを実感できた、亡くなった人の(500人の名前を読み上げたとき)まだ死ぬの、まだ殺すのと思って、途中でこみ上げてきますね、怒りと悲しみで」
特別な思いで見守る人がいました。高山朝光さんです。大田昌秀元知事の右腕として礎の建設に尽力しました。高山さんは10歳の時に沖縄戦を経験しています。戦火に巻き込まれ、多くの人が犠牲になる様子が強く記憶に残っています。
高山朝光さん「地獄の沖縄戦ていうのを風化させることなく将来に伝えていくことが非常に大事だと、そのためには亡くなられた方の名前を刻銘していくということで、生きた人々の証としてそれをきちっと伝えていくことが重要だと(礎をつくった)」
平和の礎は今でこそ、慰霊の日を象徴する場所になっていますが、計画が持ちあがった当初、建設に反対する声もありました。
高山朝光さん「野党側の議員からかなり反対の意見が出たんですね、1990年代っていうのは日本の経済が落ち込んでいたんです。そうするとこの時期に平和の礎をつくる時期なのかと、学者の一つの空想ではないかという厳しい意見もあって」
恒久平和を発信する拠点として必要だという理解が進み、戦後50年という節目の年に完成しました。そこには、出身地や国籍、民間人や軍人、敵、味方問わず名前が刻まれています。
高山朝光さん「人を憎むのではなく、戦争を憎む、戦争がいけないんだと。ですから敵の兵の名前を刻むなっていう(声)のは出てこなかったのが私にとっては感動であり大変良かった」
完成から27年、平和の礎が役目を果たし続けています。
西原中学校の平和学習、 およそ560人の全校生徒が名前の読み上げに参加しました。3日間で西原町の戦没者6290人、一人ひとりの人生に思いをはせている様子でした。
生徒「一人ひとりの人生が失われた戦争だから、その人たちが頑張って生きたっていう証拠ではないけど、生きたのを忘れないように心を込めて読みました」
生徒「名前がない人とかもいてなんか苦しいだろうなと思います。名前を呼んでひとりひとりの人生がちゃんと幸せな人生があったんだろうなって(思った)」
生徒「次の世代とよくかかわっていって将来は教育系の職に就きたいので、そういうときもみんなに分かってもらえるようにちゃんと説明をしてそのうえで、また私たちと同じような戦争を否定していくような子供を育てられたらなと思います」
平和の礎にはことし55人が追加刻銘されました。刻銘者の合計は24万1686人に。
平和の礎に訪れた人「(礎に乗っているのは)父親といとこですね、そこら辺には親戚もいます。自分が小さい時だから全部(父の記憶は)わすれていますね」
慕っていた先輩たちに手をあわせる人も。
平和の礎に訪れた人「協力隊としていっしょに(戦場に)行ったんですよ、一発でみなさん、みんなやられて…。仲はとてもよかったですよ、ここは先輩なんですよ私よりは。だからいつもついていっていたんです。いっしょに死ねばよかったのにと思いましたよあの時は…。だけどね、97歳ですよ、みなさんに守られています」
高山さん「ひとりびとりが平和の尊さを実際に自分自身で考えだしていって、声を大にして訴えていくということが極めて重要だと思います」