1カ月前、かつてアメリカ軍統治下にあった沖縄と日本を隔てる国境となった北緯27度線の上で、復帰運動当時の海上集会が再現されました。復帰50の物語、第20話のきょうは、今もつながる与論と沖縄の絆を取材しました。
国頭と与論・・・海を隔てて20キロ。かつて海の上にひかれた見えない国境、北緯27度線で求めた沖縄の返還。それは受け継がれる、4月28日の歴史。
青山恵昭さん「1953年の12月25日に奄美は、日本復帰を果たしたですね。沖縄とは分離されたわけです。それで、与論島と国頭村の間に国境がひかれたですね。北緯27度線という国境がひかれたんです」
この日を特別な思いで迎えた人がいました。
青山恵昭さん「私の母と父は台湾で結婚して、私が生まれたんですね。国頭村と与論の出身のハーフなんです、私は」
与論出身の父と、国頭出身の母のもとに生まれ、辺土名で育った青山恵昭さん。来る4月28日を前に、ふるさと国頭村の子どもたちに向けて、与論と沖縄の絆について語り始めました。
青山恵昭さん「与論島の人たちは家をつくるときは、わざわざ国頭まで来たんですね。奥、宜名真、辺戸とかに材木を求めて、物々交換をして(与論に)持って行ったんです」
山のない与論では、家を建てるための木材を国頭から調達し、代りにヤギや鶏などを贈り、物々交換をしていました。こうした関係から与論では沖縄のことを「親島」と呼ぶようになりました。
復帰運動の盛んだった1964年。当時、大学生の青山さんも海上集会へ参加していました。
青山恵昭さん「(1964年)私はちょうど琉球大学の学生になってたんですよ。琉球大学学生代表団とありますよね、私がいるんですよ。今の私の半分ぐらいの体つきしかないんですけど、後ろを向いてハチマキをしているのが私なんです」
苅田呉琉さん「与論と国頭村の交流がすごいとか、木とヤギを物々交換してるのもすごかったです」
「半永住」と書かれ色あせた在留許可証を青山さんは今も大切に保管していました。
青山恵昭さん「いわゆる奄美の人を強制送還の命令が出たんですね。その外人登録証を持たされて、持っていないと強制送還するぞという脅しをかけられたんですね」
復帰当時、沖縄に住む奄美群島の出身者たちは米軍の布令によって”非琉球人”として在留許可証の携帯を義務づけられたのです。そして、生きていくのに必要な様々な権利を奪われだだけでなく、「オオシマ―」と呼ばれ、差別を受けたというのです。
青山恵昭さん「オオシマーという言葉がよく使われたんです。何か犯罪が起きると「オオシマーがやったんだ」というふうな」
そこにはアメリカ軍による、ある狙いがあったといいます。
青山恵昭さん「米軍の狙いなんですよ。分断工作なんですよね。やっぱり一緒に団結させちゃいけないもんですからね。一緒に手を組むと、沖縄まで復帰させんといけなくなりますから」
那覇市内のホテルでは、海上集会を4日後に控え、沖縄に住む与論出身者たちによる「沖縄与論会」が開催され、代表として、2人のメンバーが海上集会に参加することになりました。迎えた4月28日。かつて国境となった北緯27度線の海の上では、当時の絆を再確認するかのように海上集会が再現されました。
沖縄与論会 山本和義会長「こどものころ、与論で海上集会を目撃したり、かがり火大会に参加してたんです。日本に復帰してしばらく、奄美の人が外国人扱いされた沖縄で。見えない国境線がひかれるのはとてもつらいことだと思っています」
沖縄与論会 福廣之進副会長「父親が与論の出身で、当時は与論町の青年団長で復帰運動に関わっていたので、今は僕たちが引き継いでいる。(今後は)後世に語り継ぐ必要性を感じました」
青山恵昭さん「私19歳でしたから、あの当時のことがやっぱり頭によぎりました」
海上集会が終わると、沖縄本島の最北端、与論の島影が見える辺戸岬で式典が開かれました。代表挨拶を務めたのは、青山さんの講演会に参加していた、あの国頭村の児童です。
国頭村児童交流団代表 苅田呉琉さん「与論町とは木材とヤギを交換するなど、昔からお互いの暮らしを支え合い、協力し合ってきました。僕はこれから人と人の絆を大切にし、与論の人たちと交流をして、もっとお互いのことを知り、さらに絆を深めていきたいと思います」
与論町 久留満博副町長「私どもユンヌ島(与論)は地理的、歴史的な背景から、(沖縄から)多種多様な恩恵を受けてきたことで、沖縄のことを親島と思っております。パスポートなしでは渡航できない悲しい分断の歴史を経験しました」
青山恵昭さん「差別するくびきから放たれた、復帰によって。奄美の人たちは解放されたんですよ。与論のこどもたちもいっぱいきている。国頭から(子どもたちが)与論にもいっている。あのメンバーが与論で火を灯している。人間のつながり、絆、一体化してそこに歴史を動かす力があるんじゃないかと思いますね」
国境も、時代も越えて繋がる、与論と沖縄の絆。受け継がれていく小さな灯は、平和を願う未来への希望となって、燃え続けていきます。