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茶褐色のチョコスポンジと、雪原のごときココナッツフィリング。シャリシャリとした食感や異国を思わせる独特な風味で、唯一無二の存在感を放つのは、ジャーマンケーキです。

沖縄の人々がその日の食べる物にさえ困っていた時代、フェンスのむこうの豊かな食文化が、ひとりの青年の心を大きく揺さぶりました。

ジミー 稲嶺盛一郎社長「先代はアメリカの豊富な物資が、物資が豊富にあるということがインパクトが強かったと思うんですね。やはり戦争に負けた国とそれから勝った国の落差っていうんですかね」

クッキーやケーキなどの洋菓子、ボリュームたっぷりのパン。アメリカの食文化を紹介してきたジミーでは、現在、ベーカリー・レストラン・お惣菜・一般食品などを柱に、県内23店舗を展開しています。

売り場で、パイなどの定番商品とならんで、大きく展開されているのが、ジャーマンケーキです。今や県内では、コンビニやスーパーでも売られるほどに親しまれていますが、人気の火付け役となったのがジミーです。創業のきっかけは、終戦直後にさかのぼります。

復帰50の物語 第5話「沖縄洋菓子ジャーニー 後編」

16歳で軍雇用員として北中城のアメリカ軍基地で働いていた、創業者の稲嶺盛保さんは、フェンスの中の豊かな生活を目の当たりにします。

ジミー 稲嶺盛一郎社長「当時は基地の中でジャーマンケーキが普通にデザートとして食べられてたと、私は思ってるんですけど、それを、やはり戦争に負けた国とそれから勝った国の落差っていうんですかね、すごい大きいのがありましてですね。やはりアメリカの豊富な国の物資を、やっぱり沖縄の人たちにもお届けしたいという気持ちからですね、ジミーを創業していったと聞いております」

資金を貯め、1956年5月 宜野湾市大山に、外国産の食品や日用品を販売する雑貨店を開店しました。「ジミー」という店名は、盛保さんが基地内でつけられたあだ名からからとったものです。

ジミー 稲嶺盛一郎社長「最初は雑貨屋ですね、俗にいうマチヤーグワァーですよ。それからがスタートしまして」

どこにでもある、小さなマチヤーグワァーだったジミー。日本製のものが手に入らない時代に、外国産の品物や、沖縄の人たちに馴染みのうすかったパンやケーキを売り始めました。

盛保さんは、アメリカでコックやパン屋を営んでいたアメリカ兵たちをアルバイトとして雇い、パンやケーキを作らせて製造法を学びます。その中のひとつが、ジャーマンケーキだったのです。

ジミーのジャーマンケーキは、チョコスポンジにバタークリームをサンドし、ココナッツとクルミを甘く煮詰めたフィリングをたっぷりとのせています。

マチヤーグワァーの片隅で始めたベーカリーは、米軍関係者や沖縄の人々からも支持を集めていきました。

40年あまり前から働くスタッフも、初めてジャーマンケーキに出会った時は衝撃だったそうです。

復帰50の物語 第5話「沖縄洋菓子ジャーニー 後編」

入社44年 菅野さん「東京でもないものがたくさんあったので、まず、びっくりしました。あんなにココナッツを使って、ナッツを使ったものって向こうで見たことないし、コナッツ自体がなかなか向こうではそんなに使わないんですよね、当時は」

クリスマス用のターキーも印象に残っているといいます。

入社41年 知念さん「はじめて食べたんですよ、ジミーで。40年前ですけど、びっくりしましたね、こういうのがアメリカの味かなということで」

入社42年 与那覇さん「当時はもう、名護から糸満まで、この大山店のほうに集中してきたという話ですね」

しかし、すべて順調だったわけではありません。本土復帰の際、取り巻く経済環境が大きく変わり、一時は経営不振に陥ったこともありました。

ジミー 稲嶺盛一郎社長「この辺だったと思いますね。この辺に店があったと」

さらに本土復帰に伴い、店舗が面していた軍用道路1号線が、国道58号として整備されたことで、車が横付けできなくなり、客足にも影響が…。

復帰50の物語 第5話「沖縄洋菓子ジャーニー 後編」

ジミー 稲嶺盛一郎社長「58号線を、盛り土したと思うんですね、どのくらい上げたかは、ちょっと覚えてはいないんですけど。それでこちらは、へこんでしまった。もうやっぱり、商売ができなくなったと。要は駐車場がなくなってしまったんですね。それで、意を決して、この建物を壊したんですね」

復帰後、沖縄の「ヤマト化」が進む中で、ジミーは、あえて復帰前と同様に、世界の食文化を伝えることを選びます。そこには、創業者のハワイへの感謝の思いがあったからです。

ジミー 稲嶺盛一郎社長「戦後、米軍基地の中で働いていたときに、ハワイの二世の方々にかなりかわいがられているんですね。ハワイを通してアメリカの文化を吸収していったと思います」

ハワイとの絆を大切にし、その交流の中から、新商品を次々に開発していきます。かつて、フェンスの向こうの食文化を伝えようと創業したジミー。ジャーマンケーキは、創業者にとってアメリカの豊かさの象徴でもありました。

そして本土復帰から50年の今、ジミーは、沖縄の食材を使った商品開発に力を入れています。

ジミー 稲嶺盛一郎社長「我々にとっては、基地の中で勉強した習ったことが生活の糧となっておりますので、そこが原点だったということですね。アメリカ的なあのハワイ的な雰囲気といいますか、それを守りながらもともと作る技術は、アメリカの皆さんから教えてもらっていたり、ハワイの方々から教えてもらっていたり、いろいろとあるわけですね。その製法はあって、それに日本の技術も入れながら、沖縄の俗にいうチャンプルーですかね、そういう形で、進化させていきたいなと考えておりますね」