明治時代の沖縄で県知事に当たる県令という職務に務めた上杉茂憲の話題です。八重瀬町が4月から説明板を制作していて、今月11日に完成の日を迎えました。
説明板の完成を祝うセレモニーには、上杉県令のひ孫、上杉邦憲(うえすぎくにのり)さんが東京から駆け付け、町長など関係者とともにお披露目を喜びました。
上杉県令のひ孫 上杉邦憲さん「茂憲もこれを見て喜んでいるだろうと思います」
県令の上杉茂憲(うえすぎもちのり)は、上杉謙信の流れを組む、米沢藩最後の藩主で、明治時代の沖縄で1881年から2年間県令を務めました。
説明版には上杉県令が当時の沖縄で行った功績のうち、いまの八重瀬町にあたる東風平間切りとつながりのあるエピソードが記されています。
「学事は東風平をもって標的とし将来漸をもって各自其間切々々において奮発恢興すべし」
自ら足を運んで沖縄全土を視察し、当時の住民の生活を記録に残していた上杉県令は、厳しい財政の中でも子どもたちのために寄付を募り学校をつくっている東風平間切りの人たちに心を打たれ、ほかの地域もこれを見習うよう訓辞を残しました。
県令の言葉をひ孫にあたる上杉邦憲さんが揮毫したものが説明板に載せられています。
さらに説明板には、東風平間切り出身で、自由民権運動の父と呼ばれる謝花昇(じゃはなのぼる)との関りも記されています。実は、謝花が東京で学ぶきっかけとなった県費留学の制度を作ったのが、ほかでもない、上杉県令だったのです。
制作の中心となったのは、八重瀬町立具志頭歴史民俗資料館の屋嘉比健作(やかびけんさく)さんです。完成に至るまで多くの苦労がありました。
八重瀬町教育委員会 屋嘉比健作さん「字数が限られている中でどう効率よく伝えられるか、多くのことをより凝縮してどう伝えるかがやっぱり課題があってそこが一番難しかったです」
製作期間は7か月にものぼりました。当時の資料はあまり多く残っていないため、一言一言に間違いがないか慎重に調べたといいます。
八重瀬町 諸見里勲教育長「上の方は全部県令としての書き方になってる。最後だけが上杉茂憲公って公(が付いていて)いいのか?」
八重瀬町教育委員会 屋嘉比健作さん「米沢でも最後の殿様として親しまれているのでもありますし」
説明の内容や言葉遣い、文字の書体に至るまで、すみずみまでチェックが行われました。
八重瀬町教育委員会 屋嘉比健作さん「見てもらったところの指摘はあったんですけど、指摘も受けながらより良いものになればと、これからまた作っていきたいと思います。」
そして今月11日、ようやく完成しました。完成セレモニーでは、上杉邦憲さんが町長とともにじっくりと説明板に目を通す場面がありました。見つめる二人の表情は、とてもにこやかなものに見えました。
上杉県令のひ孫 上杉邦憲さん「とても素晴らしい、意を尽くしたといいますか、完璧な説明になっているんじゃないかと思いますし、そのつくられたご努力は大変だったろうなと私も思います」「この八重瀬町であり、沖縄と米沢との絆と申しますか、つながりが伝わっていくのはとても素晴らしいものだと感じています」
八重瀬町 新垣安弘町長「(説明板の出来は)100点だと思いますよ。説明の中身もすごくいいと思います」
八重瀬町教育委員会 屋嘉比健作さん「今はやり切ったなという気持ちがあります。私たちがみなさんに(地元の歴史を)知ってもらう作業をすることで、より地元を誇りに思って、地元から外に飛び出したときにまた、ここに根っこがあるんだと町民の皆さんに感じてもらえれば、強みになるんじゃないかなという思いもあります」
来年度には町内の小学校にも同じ説明板が贈られる予定です。明治時代の遠い昔、沖縄のために尽力した県令の記憶が、140年たった現代で形となり、次の世代へと継承されていきます。