明治時代の沖縄で今の県知事にあたる県令という職務を務めた”上杉茂憲”という人物を知っていますか?
八重瀬町ではこの人物を再評価する流れがあり、その功績を紹介する説明版の制作が大詰めの段階に入っていました。
9月下旬、八重瀬町の資料館に1枚の紙が届きました。100年以上前にもなる明治時代の沖縄をまとめた当時の県令”上杉茂憲”が残した言葉が書き記されています。
「学事は東風平をもって標的とし、将来漸(ぜん)をもって各自其(その)間切々々において奮発恢興(ふんぱつかいこう)すべし」、
各地域の役人に向けて訓辞されたもので、「教育は東風平を目標にするように」という意味が込められています。
八重瀬町教育委員会 生涯学習文化課屋嘉比健作(やかび・けんさく)さん「こういう風に教育を、学校建設のために頑張っている東風平を目標にして頑張るようにということで、記録が残っていた」
戦国時代に越後国(えちごのくに)を治めた武将の上杉謙信の流れを組む上杉茂憲は明治時代の沖縄で1881年から2年間、2代目県令を務め、様々な政策を行い子どもたちの教育に尽力しました。現在、八重瀬町ではこの人物が再評価されているといいます。
濱元晋一郎記者「上杉県令とはどんな人物で、八重瀬町とはどんな関わりがあったのか、それは県の資料で知ることができます」
沖縄県史には上杉県令の行政記録が収録されています。人々の生活を直に確かめるため県令としては初めて県内各地を自らの足で歩いて回り、課題や実情を記録しました。その中で、現在の八重瀬町にあたる「東風平間切り」を訪れた際、苦しい生活の中でも資金を出し合って子どもたちのために学校を作っている住民の姿に感銘を受け、訓示を残したといいます。
それが、「学事は東風平をもって標的とし、将来漸をもって各自其間切々々において奮発恢興すべし」という言葉でした。
県令の訓辞を書にしたためて八重瀬町に寄贈した上杉県令のひ孫・上杉邦憲さんが当時の県令の気持ちをこう話します。
上杉県令のひ孫 上杉邦憲(うえすぎ・くにのり)さん「(学校を作っている東風平の人を見て)感激されたという言葉も残っておりますし、いくらかの私財もその場で寄付したりですね、子どもたちに奨学金といいますか、あるいは文房具を与えたとか、そういうことをしたときいています」
訓辞から140年。八重瀬町では上杉県令(茂憲)の言葉は町の誇りとなっていて、多くの人に知ってもらおうと説明版の制作が進められています。
新垣安弘(あらかきやすひろ)八重瀬町長「(訓辞があったのは)町にとってもすごくよかったと思いますし、そこはまた県令自体が教育の重要性を、沖縄県を作っていくうえで多くのみなさんに発信する場になったと思うんですよね。そういう点では、歴史上のそういった場面をしっかりと後世にも語り継いでいければと思います」
上杉県令を語る際に欠かせないものがあります。東風平間切り出身のあの偉人との関わりです。
八重瀬町教育委員会 生涯学習文化課 屋嘉比健作(やかびけんさく)さん「(上杉県令が)県費留学制度というものを作って、その中の選ばれた5人の中の1人が謝花昇だったんです」
上杉県令は県費留学の制度を作って5人の学生を東京に送り出しました。留学生の中で唯一平民出身だったのが謝花昇です。後に自由民権運動の父と呼ばれ、県民の選挙権獲得のために政府と戦いました。
謝花昇が自由民権運動に携わるきっかけを作ったのが上杉県令だったというわけです。
八重瀬町では、そういった地域との関わりなどを調査し、職員同士でチェックしあいながら説明板の制作を進めています。どうすれば分かりやすく伝えられるのか、一文字一文字に悩みます。
八重瀬町教育委員会 生涯学習文化課 屋嘉比健作(やかびけんさく)さん「子どもから大人まで、分かってもらえる文にするっていうのが、課題でもあって、ちょっと難しいところですね」
沖縄のために尽力した県令”上杉茂憲”の説明版は彼自身が県費留学で東京に送り出した沖縄の偉人、謝花昇像の隣に設置されるということです。
上杉県令のひ孫 上杉邦憲(うえすぎくにのり)さん「ああこんな歴史があったんだ、こんなつながりがあったんだということが広まっていけばいいなと思っています」
新垣安弘(あらかきやすひろ)八重瀬町長「早く出来上がって多くの町民に訪れてほしいと思っています」
八重瀬町教育委員会 生涯学習文化課 屋嘉比健作(やかびけんさく)さん「説明版をきっかけに地元を誇りに思うっていうのをより強めていただけたらなあと思っています。」
説明版は来月11日に完成する予定です。