沖縄が本土に復帰してから、あすでちょうど49年。来年には復帰50年を迎えます。
当時のウチナ-ンチュたちは、復帰とどう向き合い、何を思っていたのでしょうか。今回は、本土復帰に伴い姿を消したある施設の職員たちの証言を通して復帰を見つめます。
図書館の自習スペースで真剣に机に向かう子どもたち。奥の席まで埋まっています。一方、こちらは、地域に出向いて人形劇の公演です。復帰前の沖縄で、人々に新しい文化や知識を届けようと力を尽くした青年たちがいました。
琉米文化会館 元職員大嶺昇さん「子どもたちに紙芝居を見せたり」
琉米文化会館 元職員比嘉義次さん「終戦直後の本当に何もなかった時代にね、沢山の人たちにいろんな文化を与えてね」
彼らの職場は、琉米文化会館。復帰にともない消えた施設です。
琉米文化会館の元職員、大嶺昇さん、かつて通っていた職場は、崇元寺の敷地内にありました。
琉米文化会館 元職員 大嶺昇さん「この木が、僕らがいた頃はこんなもんでね、細いんですよね。65年くらいなりますかね、こんなに大きくなってしまって」
終戦からわずか数年後に建てられた那覇琉米文化会館。立派な赤瓦の建物を拠点に、大嶺さんは、車に映画のフィルムや本を積んで、毎日のように島尻方面を巡回していました。
琉米文化会館 元職員 大嶺昇さん「巡回映画ですね、それから、巡回文庫とかね、そういう地方めぐりが主でしたね」「電気も無いような場所ですからね、発電機も持って行ってね、スクリーンも持って行ってやるもんですからね、みんな喜んでいましたよ」
琉米文化会館は、沖縄を占領していたアメリカ民政府が1951年から翌年にかけ県内5カ所に設置したものです。琉米文化の交流と沖縄住民の教養を高めることなどを名目に、図書館を軸として、音楽スポーツ、子ども活動など様々なプログラムを沖縄の人々に提供していました。
名護市の琉米文化会館で20年近く勤めていた比嘉善次さん。比嘉さんは、大嶺さんのひとつ先輩です。当時のことを話せる人は、もうふたりだけになってしまったといいます。
琉米文化会館 元職員 比嘉義次さん「図書館というところで働いてみたいという願望はあったんですよ。それでこれは最高の職場だねと思って。新しい本の匂いはなんともいえない香りでね、生きがいを感じました」
本が貴重だった時代に、比嘉さんたちが特に力を入れていたのが移動図書館です。
琉米文化会館 元職員 比嘉義次さん「こども、大人とかね、農村であれば農業関係の本とか地域によって、向こうの要望も聞きながらやっていましたね」
琉米文化会館 元職員 大嶺昇さん「どこにでも行く、希望があったらね。愛楽園なんかもに行きましたけどね」
このほかレコード鑑賞会や音楽コンサートを、週1回のペースで開催していました。開館は夜9時半までということもあって、最盛期には、県内5つの施設であわせて年間314万人が利用するほどの盛況ぶりでした。
しかし、県内で、本土復帰への機運が高まるにつれて、アメリカの立場を支持させるための宣撫工作ではないかと批判の声もあがるようになりました。これは、1959年から1972年の復帰まで、沖縄で発行されていた雑誌「守礼の光」です。アメリカ陸軍第7心理作戦部隊が、基地を安定的に維持したいという狙いのもと発行しました。冊子を配布していた琉米文化会館の活動も、それと同様だとみなされていきました。
琉米文化会館 元職員 比嘉義次さん「あんたたちアメリカの回し者じゃないかとか、いやこんなことけしてないと。我々は、アメリカのために働いているんじゃなくて、住民のために働いていたんですよ。そういった面で我々は、誇りを持って住民のためにしているから、全然こういったよその変なあれが耳に入っても無視しましたね」
そして、1969年11月に沖縄返還が決定すると、その半年後に比嘉さんたち職員のもとに、ある通知がとどきました。
「人員整理及びそれに代わる配置転換について」「予算の都合により、琉球列島米国民政府においてこの職員を削減しなければならなくなったため、貴方の職は廃止されることになりました」
書類には、人員整理のため解雇するということと、職探しを促す内容が書かれていました。
比嘉義次さん「あと1年半しかないからね、勤務はその間に仕事を探さないといかんから、仕事探せなくなったらお手上げですよね。だから非常に深刻でありましたよ、みんな」
その後、就職先がみつかり、復帰の1年前に、20年近くつとめた琉米文化会館を去りました。
琉米文化会館 元職員 大嶺昇さん「終戦後の苦しい時期にゼロから立ち上げてきた文化の施設があったということを知ってほしいと思いますね」
比嘉義次さん「もののない時代をね、これだけいろんな文化を与えたっていうことは我々の誇りと思いますよ」
戦後の沖縄に、新しい文化や知識を届けようと尽くしてきた琉米文化会館の青年たち。復帰とともに消えた歴史の影のなかにも、沖縄のあゆみが刻まれています。