1996年の橋本・モンデール会談による普天間返還合意から25年。今なお続く基地負担と、強行される辺野古新基地建設。この25年の歴史を振り返りるとともに、基地の返還実現に向けて、必要なこととは・・・
町記者「宜野湾市の住宅街が立ち並ぶ、まさに真ん中に、普天間基地が見えています。25年前のきょう、当時の橋本総理は、「5年ないし7年で普天間基地を全面返還する」と会見を行いました。しかし、今なおこのように普天間基地は返還されぬままとなっています。返還合意かからこれまでの25年を振り返ります」
橋本龍太郎 総理(当時)「普天間飛行場は今後5年ないし7年以内に、これから申し上げるような措置が取られた後に全面返還されることになります」
しかし、普天間基地は今もなお、県民の命を危険にさらし続けています。
宜野湾市民 60代男性「もうこんな(25年に)なるんですね。普天間基地は害ですよ。ほんとでしたら、今すぐにでも返してほしいですよ」
宜野湾市民 20代女性「友達も基地に住んでるので、一緒に(基地の中に)入ったりとかもして、全然(返してほしいとか)そんなのは思わないです。それに慣れているんで、もう、ずっとここにいて」
宜野湾市民 20代男性「25年は長いですね、長いなと。一刻も早く返して頂ければ、いいかなと思ってます」
宜野湾市民 60代女性「やっぱり、沖縄県だけに押し付けるのはどうかなって考えますよね、住んでるものとしてはね」
玉城知事「25年間普天間の返還が実現していない理由、最も大きな理由は、県民の頭越しに日米で合意をした計画に固執していると。引き続き日米両政府に対して沖縄との真摯な協議にも応じていただくよう、その対応の場(の設置、いわゆるSACWO)を設置するようこれからも求めていきたい」
一方、アメリカ軍の基地問題を長年取材する専門家は、普天間基地がいつまでも居座り続ける理由を「政治の無策」だと訴えます。
沖縄国際大学 前泊博盛教授「政治の無策ですよね。事を動かせるような政治家がその後誕生していないということです。橋本さんは、SACO合意で(普天間基地を含む)11施設の返還を勝ち取りました。アメリカと交渉して。ところが、そういうタフネゴシエーターがその後誕生していないということです」
動かぬ基地を動かすために、今、求められていることは・・・
沖縄国際大学 前泊教授「基地を返還させていく新しい基地返還アクションプログラムをつくるべきだと思います。そのカードを作ることによって、返還交渉が改めて動き出すという、交渉カードもなければ、相手との交渉も何もできませんから。この普天間基地を返したらどれだけの夢が描けるのか、そして、沖縄の経済がどれだけ発展していくのか、そういう夢を描くことによって、若い人たちが動き出していきます」
新しい基地返還計画をつくり、その計画をもって、交渉することが必要だと指摘する前泊教授。NA)普天間の返還はいったいいつになるのか、それまで毎日、県民は危険ととなり合わせです。
さて、普天間返還合意から25年2日目となる明日は、辺野古新基地建設の現場を、ドローンで撮影し続けている、ある1人の男性の奮闘をお伝えします。