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かつて、西表島に大規模な炭鉱があったのをご存じでしょうか?そこでは、多くの台湾の人たちが働き、労働の過酷さから命を落とす人も多くいたといいます。この忘れ去られた炭坑の歴史をひも解くドキュメンタリー映画が制作され、沖縄や東京で上映がスタートしています。

映画を観た人は「びっくりしちゃった。初めてで、全然八重山のことは知らなかったもんだから」映画を観た人は「今回あんな形で何年もかけてインタビューをしなかったら、そのまま埋もれちゃってたのかもしれないなと思うと記録に残って埋もれさせないようにするってすごく大切だと思うんですね」

歴史の闇に埋もれていた西表島の炭坑に光をあてたドキュメンタリー映画「緑の牢獄」が公開されています。

橋間良子さん「みんながここを死人の島って呼んでた」「誰も来たがらない場所よ」

映画「緑の牢獄」西表炭坑の記憶を探る

過酷な自然に囲まれた島の奥深くで、かつて、多くの台湾の人たちが働いていました。主人公は、日本が台湾を統治していた時代の1937年に西表島に渡った橋間良子さん。作品では、橋間さんのインタビューを中心に、再現映像を交えながら炭坑の歴史をひも解いていきます。

監督をつとめたのは、台湾出身で沖縄を拠点に活動する黄(コウ)インイクさんです。この映画の製作に7年の歳月をかけました。

黄インイク監督「橋間おばあみたいな存在が沖縄のどこかにずっとずっと住んでいた彼たちの人生、そういうことをようやく沖縄の人に日本の人にみせるのが、私にとってすごく感慨深いですね」

黄監督は、台湾が日本の植民地だった時代に、八重山諸島に移住していった「越境者」たちのドキュメンタリーを撮り続けています。西表島の石炭採掘は、明治時代前半に、政府の後押しで始まりました。

映画「緑の牢獄」西表炭坑の記憶を探る

大正時代から台湾の人たちが働くようになり、最盛期には、坑夫の半分ほどを占めていました。炭坑で働く人たちは、過酷な労働に耐えるため「モルヒネ」漬けとなったり、経済的な問題で「緑の牢獄」から抜け出すことができない状況に陥っていきました。

しかし、坑夫として働き、その後も西表や石垣に住み続けている人はほとんどいませんでした。そうした中、唯一の関係者として出会ったのが橋間さんです。橋間さんの父は、炭坑を経営する日本企業と台湾人坑夫たちの仲介役をしていました。

橋間良子さん「ここに渡ってきたのは10歳の時。学校も行かんかったよ、おばあは。1日も教室の中入っていないよ」『炭坑もの』って呼ばれるの。炭鉱の蛮人って」

戦後炭坑がなくなったあとも、80年あまり島に住み続けた橋間さんに対し、黄監督は「なぜこの地にとどまり続けるのか」その理由を考えるようになったといいます。

映画「緑の牢獄」西表炭坑の記憶を探る

黄インイク監督「橋間おばあは、実際10歳で西表に連れて来られたのに、終戦後2年だけ台湾に戻って、9割の時間西表に住んでいたのに、台湾人のおばあさんに見られるんですね、じゃあなぜ、ずっと西表に住み続けて、子どもも島出て、そういう家族、囲まれている生活でもないし。私にとっては、おばあがかわいそうかどうかは別に、家を守り続けたい、西表に住み続けたい理由は、根本的なものがあるんですよね」

映画では、戦前の日本が台湾の坑夫に対して過酷な処遇をしていたことを責めるのではなく、橋間さんをはじめ坑夫たちが、なぜ「緑の牢獄」にとどまったのか、インタビューと緻密な歴史考証から浮かびあがらせていきます。

黄インイク監督「この映画でね、最終的に皆さんに見せたいのが、それが誰が加害者と訴えるものではないです、この作品は全体的から見たら、すごい悲惨な話なんですけど、なかに入ってみるといろんな歴史があってひとことで言いづらい。人の善と悪みたいなものを映画を通して観客に考えさせられたと思いますね」

映画「緑の牢獄」西表炭坑の記憶を探る

橋間良子さん「昔の炭坑の人。かわいそう。惨め。昔のことはみんな忘れた」

橋間さんの胸の奥にひそんでいた炭坑の記憶に耳を傾け続けた映画「緑の牢獄」。越境の地に生きた台湾の人々の痕跡を、今につなぎます。

映画「緑の牢獄」は、現在、桜坂劇場で公開中です。5月以降に台湾や石垣島などでの上映も予定されています。この作品は、企画の段階ですでに、ベルリン国際映画祭などの企画部門に入選していて、黄監督の今後の活躍が期待されます。

映画『緑の牢獄』公式サイト – 4月よりポレポレ東中野他 全国順次公開!