シリーズ非戦の誓い。きょうは戦争の時代を生きた若者たちの言葉に耳を傾けます。わずか14歳から18歳で、鉄血勤王隊として戦場に駆り出された少年たちが遺書に綴った思いとは。
首里高校の前身、県立第一中学校の学生寮の跡地に建てられた「一中健児之塔」。慰霊の日の1週間前、首里高校の新1年生の姿がありました。
沖縄戦当時、第一中学校に通う14歳から18歳の少年たちが鉄血勤皇隊や通信隊として学徒動員され、およそ290人が亡くなりました。ここ養秀会館には、彼らの遺書や遺品が展示されています。
山田さん「亡くなった方々の遺影ですね。職員から、5年生、4年生、3年生、2年生、1年生となっています。刻銘碑には、290名刻銘されてますけど、実際ここにある写真は約80名分ぐらい足りないんですね。」
そして当時17歳だったある一人の少年の話に。
山田さん「桑江さんという4年生ですね。この方のですね、実は、飯ごうと弁当箱。これはお母さんの弁当箱なんですけど、それが、実は一中のこの資料室にあるんです。」
山田さん「その弁当箱にはその時の銃弾の当たった様子が刻まれてますし、それから、最近知ったのはそのお母さんの弁当箱も、実は、火炎放射器で焼かれて、そして、溶けた部分があるというような話も、聞きました。」
ここには、一中の生徒たちが残したあるモノが展示されています。
大田さん「県立第一中学校の学徒隊、3年生から5年生までの鉄血勤皇隊として動員された子たちは、アメリカ軍が上陸して一週間後ぐらい4月の上旬に、壕の中でそれぞれ遺書を書かされています。」
しかし、なぜ彼らは遺書を残すことになったのでしょうか。そこには一人の日本軍将校の存在が見えてきました。
山田さん「これはよくある質問なんですけど、特に理由というのは一中だからということではないんじゃないかと。」
山田さん「(一中に)篠原という方が将校が配属将校がおりましたけど、この方は南方の方で負傷して、非常に厳しい状況の日本軍の状況を体験してきますので、かなり厳しい状況が予想されるんじゃないかということで書いたとも、ひょっとしたら、書かせたとも言えるかもしれませんが、ただ、はっきり、なぜ一中かということはわかりません。」
戦後に発見された遺書には、少年たちの心境がありのままに残されていました。津堅島出身の3年生、根神屋昭(ねがみやあきら)さん。鉄血勤皇隊の一員として一生懸命頑張ると書いている一方で、もう一度母や兄弟の顔が見たいと揺れる思いがつづられています。
大田さん「残されたたくさんの遺書があるんですが、書いている文章とか内容は違うけど、おおまかにわけたら二つのことが書かれています。一つはやっぱり家族のことですよね。で、あともうひとつがお国のために戦いますとか、お国のためにはげみますとか、この遺書からなにを読み取れるかっていうと、私個人的にこうゆう遺書をたくさん読む中で少し考えているのはやっぱり、当時の教育がものすごく色濃く出てるなと思います。」
大田さん「沖縄戦当時、学徒隊だった14歳から18歳の彼らからすれば、物心ついたときから日本の国は戦争状態にあるわけです。」
大田さん「学校教育として、地域の社会教育として、どうゆう風な教育がなされていたかっていうと、間違いなく戦争に協力する人間を育てるための教育です。とゆうなかで、実際、戦場に動員されて遺書書けって言われて、これを書いている。」
山田さん「天皇のために国のためにというような、身を捧げるんだという内容が当時の教育の影響のもとに書かれているんですね。でも、その中にもやはり、もう一回親の顔が見たいとか、当時の中学生らしい気持ちもその中には吐露されていますね。」
大田さん「あの刻銘碑もただの名前、ただの文字として思ってほしくないし、ここの写真もただの写真と思って欲しくないなと思っています。」
大田さん「一人ひとりそれぞれの生活があって、それぞれの人生があってそれが奪われた人たちです。(290人という)数字だけにとらわれるんじゃなくて、その数字の中の一人ひとり、そうゆうところまでぜひ、感じ取れるようになってほしいなと思います。」
戦後75年の「慰霊の日」。慰霊祭には沖縄戦を生きのびた男性も参加し、友の死を悼みました。沖縄戦を語れる世代が年々少なくなり、語りつぐことが難しくなってきたいま、少年たちが残した遺書の持つ意味はますます重要になってきていると言います。
山田さん「本人たちの言葉っていうのは、亡くなってますので、それはまったく知る由もないんで、この遺書っていうのはやはり言葉を知るということでは、とても大事だと思います。」
戦後75年がたち、残された遺書は、時を超えて戦争の時代に生きた少年たち一人ひとりの姿と、彼らの命を奪った沖縄戦の悲劇を、いまを生きる若い世代に伝えています。