こちらの飛行機。白い塗装に緑の十字が記されいます。今から75年前の1945年8月、日本の降伏文書調印を速やかに進めるために全権を委任された代表団を乗せた飛行機「緑十字機」です。この飛行機が伊江島を経由していた史実を伝え、残したいと先日、郷土史研究家の男性が村に機体の破片を寄贈しました。
「耐えがたきを耐え忍び難きを忍び」1945年8月15日の玉音放送。国民はこの放送で敗戦を実感した。しかし、玉音放送はあくまでポツダム宣言受諾を国民に知らせるものであり、太平洋戦争が終わったわけではありませんでした。戦争が正式に終了するのはおよそ1カ月後の9月2日戦艦ミズーリでの降伏文書の調印式をもってでした。
このころ、日本国内には敗戦を受け入れない軍人がいた他、ソ連も日本への侵攻をうかがっていました。降伏調印が遅れれば、大変なことになる。そこで連合国総司令、マッカーサーはある決断をしたのです。
真っ白な機体に緑の十字が描かれた飛行機「緑十字機」と呼ばれています。日本の降伏文書調印に向け、連合国軍総司令のマッカーサーがその事前準備のために急遽、用意させた機体でした。
終戦を決定づける大きな使命を担った「緑十字機」は、8月19日、全権を委任された日本の代表団を乗せ千葉県からフィリピンへと向かいます。その途中、経由地として伊江島に着陸していました。
この史実を掘り起こした郷土史研究家の岡部英一(おかべ・えいいち)さん。おととい(28日)伊江村役場に「緑十字機」の風防の破片を寄贈しました。
岡部英一さん「極秘任務で封印されていたこともあり誰も知らないんですけれども この私たちの訪問を機会にこの平和の基礎となった話を一人でも多くの方に知っていただけらなと思います」
伊江島袋秀幸村長「私たちが今享受している平和がどのようにしてもたらされたかを広く内外にPR、発信していけるようにしていきたいと思っています」
緑十字機は、フィリピンでの会議を終え、日本の降伏文書を携えた代表とともに8月20日、再び伊江島を経由して日本に戻り任務を達成します。寄贈された緑十字機の破片は戦後の歴史の秘話を今に伝えています。