90年前、今帰仁村の百按司墓から持ち去られた遺骨の返還をめぐり、争われている裁判。原告団を支える一人の女性を取材しました。彼女の姿からは、沖縄の人たちが歩んだ苦難の歴史、そして沖縄の人たちが大切に守ってきた思いが伝わってきました。
雨の中、険しい坂道を登る人々。目指していたのは、今帰仁村運天集落の崖の中腹にある「百按司墓」。琉球王国時代の有力者の遺骨が、葬られていた場所です。
琉球遺骨返還訴訟原告・龍谷大学 松島泰勝教授「これは1号墓、2号墓、3号墓まで、向こうの方まであります。お墓全体が百按司墓と言われています」
しかしここでは90年前、ある事件が起きていました。1928年から29年にかけて、京都大学の前身、京都帝国大学の金関丈夫助教授が、この墓に発掘調査に入り、遺骨を持ち去ったのです。それらは、人骨標本として、京都大学や台湾大学に寄贈されていました。
この日、百按司墓を訪れたのは、京都大学に対し、遺骨の返還を求めて訴訟を起こしている原告団と全国の支援者たちです。
松島教授「百按司墓にあった遺骨を返してくれと訴えて、裁判が続いていまして。我々の思いを百按司墓の骨神にお伝えして、裁判所勝利に向けて、応援をお願いした」
若い人でも辿り着くのがやっとという場所に、自力で駆けつけた最年長の女性がいました。91歳の横田チヨ子さん。遺骨返還訴訟を支える会の共同代表を務めています。
この日は、横田さんが中心となり、沖縄の伝統的なしきたりに従って、祭事が執り行われました。なぜ横田さんが、原告たちの闘いを支えるのか。それには、彼女の壮絶な体験が影響していました。
かつて日本の委託統治下にあったサイパン。横田さんは3歳で両親とともに移民し、そこで地獄のような戦争を体験したのです。
返還訴訟を支える会・横田チヨ子共同代表「ピューっていったときには、弾は通り過ぎているけど、バカンっていったら、そこに落ちてね。首が落ちて、歩いてポトンと。これがもう、とっても気持ちが悪い。首がなくなるって想像つきませんよね。首がなくなった人が、2,3歩歩いて、パタッと倒れるのよ」
サイパンの戦争で、横田さんは父と兄、そして3歳の姪を亡くしました。多くの死を目の前にし、心身共に追い込まれた末、自らも姉とともに自殺未遂を図ったのです。
遺骨返還訴訟を支える会の共同代表を務める横田チヨ子さん。戦争中、サイパンで壮絶な体験をしていました。
横田さん「もう死ぬ方が楽だっていう気持ちで(家族も)いないし、ここにいたって食べ物もない。もう海の中に入って死のうよって。それで入ったんです、海に。私が先になるから、姉さんは私の後ろについておいでよって。遠浅をゆっくりゆっくり行ったら、深くなるにしたがって、波をかぶるじゃないですか。この波をかぶる、あれが苦しくて」
辛かったサイパンでの日々。しかし横田さんは、異国の地で両親から教わったことをずっと守ってきました。それは、うちなーんちゅが忘れてはならないこと、先祖を大切にする思いです。
横田さん「私はサイパン育ち、南洋で育っていますけど、お盆にはお盆のしきたり、お月見にはお月見のしきたり、あれをちゃんと教えられて、仕込まれて今がありますので。なぜ骨を研究材料にして、みんなの目に晒さないといけないのですか」
百按司墓をお参りした後、原告団は裁判の報告会を行いました。
現在、京都地裁で争われている琉球遺骨返還訴訟。原告側は、助教授による遺骨の持ち出しを「盗掘」だとし返還を求めていますが、京都大学は「盗掘ではない」と真っ向から争っています。
琉球遺骨返還訴訟原告側弁護団・丹羽雅雄弁護士「京都大学は、答弁書を出している。まず第一には盗掘ではないと。1928年、29年に警察の許可を受けていますということですから、何ら違法ではないと。あなた(原告)は遺骨の所有者か明らかにしなさいと答弁している。だから、この裁判は難しい裁判」
90年前の遺骨持ち去り。これは「盗掘」か「盗掘ではないのか」。そして、遺骨は「信仰」の対象か、それとも「研究」対象か。様々な人たちの思いを背景に、裁判は続いています。