シリーズでお伝えしている慰霊の日リポートです。きょうは南洋群島やフィリピンでの戦争について。戦争による被害補償を求め今なお法廷で戦い続ける人たちがいます。
柳田虎一郎さん「私は国は卑怯だと思っています」
祖堅秀子さん「命の補償すらないんです」
サイパンなどの南洋群島やフィリピンでは、太平洋戦争で1944年から壮絶な地上戦が繰り広げられました。
また当時、開発が進んでいなかったため、サトウキビの栽培などを目的に多くの県民が移住していて、およそ8万人いた県出身者のうち、2万5000人以上の命が奪われたと言われています。
柳田虎一郎さんは通信技師をしていた父親の転勤などにより、フィリピンで戦禍に巻き込まれました。母親や3人の姉妹とともにジャングルを逃げ惑う日々。妊娠していた母親は、アメリカ軍の艦砲射撃を受け、大量出血。疲弊する中で男の子を出産し、その3日後に力尽きました。
柳田虎一郎さん「『お母さんはもうだめだから、必ず生きて日本に帰りなさい』と、これはお母さんの遺言だということで、それで私なんかの手を一人ひとり手を取って、涙を流しながらあの世に行きました」
生まれたばかりだった弟は、きょうだいで面倒を見たものの、母の死の翌日に息を引き取りました。さらに妹も、戦争が終わり、日本に引き揚げる船の中で亡くなり、徴兵から戻った父もがんで他界。
相次ぐ家族の死。さらに追い打ちをかけたのは、遺族らに対する補償問題でした。南洋群島などから引き揚げた戦争孤児などおよそ1万7000人は、国からの補償が認められなかったといいます。
なぜ補償が認められなかったのか。そこにはあるからくりがあったのです。
柳田虎一郎さん「厚生省に何回も手紙を書いて出しました。戦争被害者だと。戦争孤児だと」145108~5秒「『もう打ち切りましたから』という返事でした」
悲惨な戦争で家族を失ったにも関わらず、補償が認められなかった柳田さん。戦後補償の対象は、「日本軍に協力したか・しなかったか」が一つの判断基準となっていました。
6年前、遺族らは国に対し、謝罪と損害賠償を求め提訴しましたが、1審、2審ともに、戦争被害については認めたものの、「国は責任を負わない」として、原告の訴えを棄却しています。
祖堅秀子さん「何とも言えないですね。本当に心無い自分たちの陳述を、どういう風に勉強なさったのか」
祖堅秀子さん。彼女もまたサイパンで戦禍に巻き込まれた1人で、今年を最後に”ある区切り”をつけると話します。日本からおよそ2400キロの位置にあるサイパン。ここでは1944年に戦が始まり、日米の激しい地上戦が繰り広げられました。
農家の父親がサトウキビの栽培のために渡ったサイパンで祖堅さんは生まれ育ち、戦争で家族9人のうち両親を含む6人を失うことになりました。ほぼ全滅となったこの島では、アメリカ軍の捕虜になることを恐れ、多くの日本兵や民間人が「バンザイクリフ」と呼ばれる崖から飛び降り、自殺しました。
祖堅秀子さん「間がないくらい人間が浮いていましたね。そして、潮水の色はと言ったら血ですよ」
祖堅さんは戦後、県内に引き揚げましたが、帰還者会が主催する現地での慰霊祭に毎年参加しているといいます。
祖堅秀子さん「とにかく家族、そして自分の郷里の方々に会いに行くという(思い)。会いに行ったら、もう本当に、自分のそばにくっついてるみたいでね」
一方で柳田さんは、補償の問題をめぐる複雑な感情から、慰霊祭には参加していません。
柳田虎一郎さん「本当は行きたいですよ。南洋で亡くなった方の霊を慰めに行きたいです。ところが補償されていないのに行く必要ないんじゃないですか。だから私は行かないんです」
現地での慰霊祭は、遺族らの高齢化により、50回の節目となる今年8月の開催で最後になることが決まっています。
祖堅秀子さん「最後としても、足腰が頑丈だったら、ツアーでも行きたいという思いはあります。あっちに家族は残して、後ろ髪引かれます」
戦争から70年以上が経った今なお、補償されていない人たちの存在。そして、遺族らの高齢化により最後となる慰霊祭。1つの戦争をめぐり、遺族らを取り巻く現状、そしてその思いも様々です。