今月18日から3日間、石垣島と宮古島で初めてハンセン病市民学会が開かれました。窮屈な生活を強いられてきた元患者たちの証言から、彼らが求め続ける「堂々と暮らせる社会」について考ます。
沖縄ハンセン病回復者の会・知念正勝共同代表「囲われて鉄条網をして、見張り所があって、徹底的に隔離されたというのはこの南静園だけです」
ハンセン病患者が強いられた苦難の歴史を学び、差別や偏見のない社会の在り方を考えた市民学会。今回初めて、療養所のない石垣島でも開かれました。
石垣島出身のハンセン病回復者・宮良正吉さん「(療養所で)診てもらって、いい薬をもらったら帰れるものだと。ところが、行ったきりで帰れなかった…」
石垣島出身のハンセン病回復者・上野正子さん「すねの所に小さなタムシのようなものができていた。そこが痛くもかゆくもなかった…」
ハンセン病は「らい菌」と呼ばれる細菌が起こす感染症です。発症すると皮膚や末梢神経がマヒして、痛みや熱さ冷たさの感覚がなくなったり、汗が出なくなったりします。体の一部が変形するという後遺症が原因で、差別や偏見の対象となっていました。
証言集の朗読『(題:絶対服従)らい病と言えば、不治の病として人々から忌嫌われ怖がられていた時代でしたから…』
1943年にアメリカで「プロミン」という特効薬が開発され、ハンセン病は不治の病から完治する病気になりました。しかし、国内では「らい予防法」という法律によって患者を療養所に隔離する政策が続けられました。
証言集の朗読『(題:生きるために)私は25歳で所内結婚しました。家内のお腹に子どもができているということでもあったんです。それで2人で一生懸命に話し合って、密かに産もうと決めて夜に逃げたわけです』
療養所の患者たちは外出することさえ許されず、さらには、断種や堕胎を強要されるなど人権侵害を受けてきました。「ハンセン病は怖い病気」という潜在意識を植え付けた国の誤った政策が人としての尊厳を奪ったのです。そんな社会の中で差別や偏見と闘った男性がいました。
上里榮さん(84歳)「人間扱いされてないですよ。米くい虫だと言われていたし、お前なんか人間じゃないっていう風な。(父と)2人とことこ、とことこと夜道を5時間。そして海が見えたと、そこが真座(南静園)、ハンセン病隔離施設だった」
宮古島出身の上里榮さん。9歳の時にハンセン病を発症し、入所したのが南静園でした。
国立のハンセン病療養所は全国に13カ所、県内では本島の愛楽園と宮古島の南静園、2カ所です。島の北端に位置する南静園。戦時中は400人以上が入所していたとも言われています。
20年ほど南静園で過ごした榮さん、30歳を過ぎた頃に病気が治り、退所することになりました。しかし…
上里榮さん「(宮古島に)居場所はない。それこそ、まだ、今ほどに理解者がいなかったから…。親兄弟に何も言わずに(島を)出た」
宮古島を離れて那覇に移り住んだ榮さん。タクシー運転手の仕事を数年した後、本島の療養所「愛楽園」でボイラーの仕事をして定年まで過ごしました。しかし、家族が集まる盆や正月にも宮古島に帰ることはできませんでした。
上里榮さん「南静園を出てきて仕事をやってきたんだという誇りを持てなかった。隠して、隠して、だけど…」偏見差別をなくすためには当事者が叫ばなければこれは解決できないと思ったから」
榮さんは自分たちが堂々と暮らすことができる社会をつくりたいと、ハンセン病患者だったことをカミングアウトすることを決意、南静園でボランティアガイドの仕事をしながらハンセン病の正しい知識を伝えています。
沖縄ハンセン病回復者の会・知念正勝共同代表「みなさん、ハンセン病はまだ終わっていません。多くの回復者が自らの病歴を隠し、地域の中で暮らしているからです」
南静園の入所者は59人、平均年齢も85歳を超えています。高齢化が課題となっているのです。また、南静園の納骨堂には290人もの遺骨が置かれ、家族のもとに戻れていない現状があります。
参加者「過去の政府の取り組みがつくってきた差別・偏見がありますので、決して他人事ではなくて、我ことのように考えていく必要があって、振り返っていく必要があって。そういう社会になるとハンセン病元患者の方々ではなくて、すべての人が暮らしやすい共存できるような世の中になるかなと…」
ハンセン病と人権市民ネットワーク宮古・亀濱玲子共同代表「島で暮らしているハンセン病の持つ悩みだとか傷だとか、あるいは治療に向かえない悩みだとか。あるいは、生活支援に相談できない辛さだとか。みんなで考えていく環境というものが、こういうことを機会につくられていくのではないかと思っています」
ハンセン病を正しく理解し、共に生きる社会のために。問題解決に残された時間は決して多くありません。