きょうは沖縄が本土に復帰して47年。復帰前、アメリカの占領下に存在した”琉球警察”という組織をご存じでしょうか。復帰前後の混沌とした沖縄とともに歩んできた琉球警察。彼らの目に映った光景とは?
沖縄県警に静かにたたずむのは、沖縄が本土復帰をする1972年まで存在した、琉球警察の旗です。1952年、琉球政府の設立と同時に、誕生した琉球警察。アメリカ占領下という特殊な社会にあって、沖縄の光と影を目撃してきました。
1962年に琉球警察に入った、稲嶺勇さん。40年間の警察人生のほとんどを刑事として過ごしました。
稲嶺勇さん「軍のシボレーという大きなパトカーがあって、運転手は憲兵隊、執行委員は日本の我々が乗って」
パトカーはアメリカ軍の払い下げの派手なアメ車。軍の憲兵隊と違って拳銃は携帯せず、装備は警棒のみ。身柄の引き渡しをはじめ業務の主導権はアメリカ側が握っていました。権限が弱かった琉球警察ですが、稲嶺さんは、憲兵隊との意外な関係を語りました。
稲嶺勇さん「そのころはね、琉米親善などと言って、復帰直前くらいまでは非常に米軍とうまくいっていた。聞き込みや張り込みもパトロールも共同でやるし、事件が発生したら、当番の時でも非番日でも一緒に情報収集することもありましたし刑事根性やお巡りさんとしての心情は、「この手で解決してこの手で被疑者をつかまえたい」というのは民の警察も軍の警察も一緒です」
一方、うるま市に住む久高弘さん。交通課の勤務が長かった久高さんですが、復帰直前の1971年、沖縄の戦後史に残る重要な出来事に立ち合いました。
久高弘さん「嘉手納の基地の中から毒ガスを天願の桟橋に移送するための警備僕らも米軍の輸送トラックに一緒に乗って、警備警戒した経験があります」
1969年7月、嘉手納基地の弾薬庫で毒ガスが漏れ、アメリカ軍人24人が搬送された事件。県民を震撼させたこの事件をきっかけに、沖縄にあった化学兵器は南太平洋の島に移されることになりました。久高さんは、危険を承知でその警備にあたることになったのです。
久高弘さん「警察官としてはやらざるを得ない使命だから、特殊な勤務ではあるけどいやおうなしに対応せざるを得なかったあまり好む勤務ではなかったけど」
それは、基地に奔走され、人々の米軍支配に対するうっぷんが爆発した時代。
久高弘さん「今みたいにおとなしい世の中ではなくて、騒然としていた過激なデモ隊もいて、火炎瓶も投げたりして騒然とした世の中だった」
そんな混沌とした時代の中で、久高さんが、印象に残っている出来事があります。
久高弘さん「沖縄県警が独自に生み出して変更したどこにもない方法、世界どこでもない方法」
復帰から6年後の1978年7月30日。道路が右側から左側通行にかわった「ナナサンマル」にかかわったのです。久高さんは、標識や表示を前もって準備し、当日一斉に取り換えるという、独自の秘策をあみだし、一夜にしてその偉業を成し遂げました。
久高弘さん「切り替えの午前6時、間に合うかどうか心配したが、ようやく間に合わせることができて、僕らは大きな喜びを味わった皆抱き合って」
アメリカ世からヤマト世へ移り変わる沖縄を見つめてきた琉球警察。復帰を2日後に控えた1972年5月13日、その歴史に幕を閉じました。
久高弘さん「本土警察では経験できない、大きな負担、心の負担や人かいの負担も大きいと思います。沖縄の置かれた宿命的な背景があった」