シリーズでお送りしている「7人の知事」。復帰後これまでに誕生した歴代の知事7人が残した言葉や直面した課題をみつ、今の沖縄を考えます。きょうは5代目の知事、稲嶺惠一さんです。
初当選直後のインタビュー「基地問題が進まない、経済が進まないなんともいえない閉塞感におそわれている暗さを打破したい」
5代目の県知事、稲嶺惠一。
県の経済界のリーダーとして活躍した実績を持ち低迷してた県経済の立て直しを期待されていました。
稲嶺さんの任期中に迎えた「2000年」、首里城が描かれた「二千円札の発行」が始まった年でもあり、沖縄でサミットが開催された年でもあります。
さらに、2003年には、構想からおよそ30年、「ゆいレール」が開通しました。
稲嶺さん「私は普天間飛行場の移設候補地をキャンプシュワブ水域内、名護市辺野古の沿岸域に決定しました」
稲嶺さんは知事に就任した翌年、普天間基地の辺野古移設を容認しました。
容認の際に求めた「使用期限付き軍民共用案」という条件は基地への反発が強い県民がぎりぎり許容できる案を模索した結果だったといいます。
そうした中…
稲嶺知事の帰国会見「沖縄の基地の在り方はこのままでいいかということを国民がわかっていただかないと、この問題はなかなか進まないと思っています」
事故当時、海外に出張していた稲嶺さんは予定をキャンセルして沖縄に戻った後、当時の小泉総理大臣に抗議するため上京したものの、「夏休み」を理由に会うことができず、面談できたのは事故から12日後のことでした。
稲嶺さん「思いの丈を全部言いました。単に要望のみならず、その背景についてもはっきり申し上げました」
稲嶺さんは知事時代、基地問題での県民の怒りを【マグマ】に例えて「地下のマグマが地表を突き破りいつ吹き出てもおかしくない状況」だと述べていました。
稲嶺さんもまた、基地問題を避けて通ることはできず、県益と国益の板挟みになりながら重大な決断を迫られた知事の1人でもありました。