Qプラスリポートです。きょうは沼尻さんのリポートです。
沼尻「はい、ことし夏の甲子園が100回の節目を迎えるのに合わせ来月から県立博物館・美術館で沖縄高校野球の歴史を知ることができる特別展示が始まります。その資料や物の収集に同行したんですが、そこには沖縄高校野球の歴史、球児たちの思いが詰まっていました」
今年、100回を迎える夏の甲子園。沖縄は首里高校が初出場してから60年の節目を迎えます。県内の高校には、その歴史を語る「もの」が多くあります。
外間さん「県民栄誉賞ですね沖縄尚学が(1999年に)センバツで優勝して創設されたと創設されて最初の県民栄誉賞」
こちらは沖縄尚学に贈られた沖縄初の県民栄誉賞。さらに。
外間さん「沖縄尚学高校野球部全国制覇、内閣総理大臣・小渕恵三、「一球入魂」」
沖縄尚学野球部大城英健部長「優勝してすぐその後、総理ご本人から電話があったらしいんですよ。「小渕です」とおっしゃったらしいんですよ「どちらの小渕さんですか?」というのが逸話になってますけどね」
ものに込められたエピソードを聞きながら収集にあたっているのは、外間一先(かずゆき)さん。県立博物館・美術館で学芸員として働いていて夏の甲子園100回大会を記念した特別展示の発案者です。
歴史を語るものは、興南高校にも。県民の悲願であった甲子園春夏連覇の2つの優勝旗のレプリカ。 そしてさらに時代はさかのぼり…
外間さん「これ高等弁務官のマークです」
本土復帰前の1968年、夏の甲子園でベスト4入りを果たした興南高校。その活躍は「興南旋風」と称えられました。当時のキャプテンが、現在、野球部で指揮を執る、我喜屋優監督です。
興南高校野球部我喜屋優監督「沖縄全体が興南旋風で喜んでくれた中で高等弁務官もとても感動したということでわざわざ学校まで来てその賞をいただいたと今でも覚えています」
当時のアンガー高等弁務官が興南の準決勝進出を祝い送った盾。アメリカ施政権下にあった沖縄の歴史が高校野球にも残っています。
そして沖縄の甲子園の歴史の始まり、首里高校では復帰運動が盛んだった時代を反映してか初出場時のメンバーの名前が記された日の丸が。さらに、校長室の棚からは…
首里高校小成善保校長「第40回の時の記念アルバムです」
外間さん「こちらが第40回大会の記念アルバムですね」
当時の学校関係者が撮影したと見られる甲子園への旅の行程などが収められたアルバムです。
首里高校小成善保校長「(Qこのアルバムは詳しいことは聞いているんですか?)いえ、これは詳しいことは聞いていない。多分一番重要な所校長室にずっと保管されていたものだと思いますね」
詳細はわからないというこのアルバム。当時の話しを聞きたいと、初出場時のメンバー・山口辰次さんと金城睦俊さんにこのアルバムを見てもらいました。
外間さん「金城さん2番だったんですね」
金城さん「私は2番」
外間さん「山口さんが3番、よく見ると名前がありますね」
金城さん「甲子園の土を拾って、このバットのケースの中に入れていた人もいるしスパイクの袋に入れていた人もいたけど、あれ全部」
山口さん「没収されたな」
アメリカ施政権下での植物検疫法で甲子園の土を持ち帰れなかったことを始め写真を通し、当時の記憶が鮮明に蘇る2人。
金城睦俊さん「(甲子園までは)まず船で鹿児島まで行って、鹿児島で3日くらい練習してそれからまた夜行汽車に乗って西鹿児島駅だったと思うけどそこから乗って大阪へというスケジュールで結局那覇から甲子園まで行くにも約1週間くらいかかっているんですよ」
(Qそういう中で見た実際に見た甲子園というのはどういうものでしたか?)
山口さん「生まれて初めて見た野球場だからねあんなでかいの噂では聞いていたけど。実際見たのは生まれて初めてだから 度肝を抜かれたというかびっくりした」
金城さん「こういうところが野球場なんだなっていう。非常にワクワク」
山口さん「良い思い出というか宝物というか良い旅行をしたよね。長かったけどあっという間だったからね」
アルバムの最後には、誰が書いたかは定かではありませんが「母国よさよなら、また来る日までこの次には必ず勝つぞ」と記されています。
金城さん「今の全国的に見ても、一番強くなったところは沖縄ではないですかねこの60年間の中でも。ぜひ頑張ってほしいと思うねことしもこういう節目に優勝出来たら最高じゃない」
沖縄の高校野球が築いた歴史や球児たちの思いが詰まった「もの」たち。来月から県立博物館美術館で展示されます