Qプラスリポートです。先週、県内では「シーミー」入りし、早速、お墓に親族が集まったというところも多いかもしれません。シーミーはおよそ250年前に尚家で始まったものですが、先日、その尚家のシーミーが復活。そのルーツに迫ります。
那覇市首里「玉陵」。琉球王国歴代の王様たちが眠る墓前でおよそ40年ぶりのシーミーが行われました。
主催したのは、かつて琉球王国を治めた第2尚氏、23代当主の尚衛さん。琉球王国最後の王、「尚泰」の玄孫にあたります。長年県外で暮らす尚さん。1970年代に父の裕さんが行って以来この日まで尚本家によるシーミーは途絶えたままでした。
尚衛さん「とても感無量です。ようやく長い間途絶えていた首里玉陵での清明祭を執り行うことができて、また皆さまのご協力があったことを非常にうれしく思っています」
親族や、尚家ゆかりの市町村の代表らが見守る中、かねてからの夢だった、尚本家のシーミー復活を果たしたのです。
そもそも中国から伝わったとされるシーミー。沖縄で初めて行われたのは、今からおよそ250年前。琉球王府が発行した歴史書の1768年の記事にはっきりと記されています。
「始めて毎年清明の節、上、玉陵に 謁し(えっし)奉祭することを定む」(=毎年清明祭を行うことを定める)
シーミーはその後士族へと広まっていったと言われますが、王国滅亡や沖縄戦という歴史の渦にのまれ、王家のシーミーがどのように行われていたのか、記録は残っていません。
ではどのように復活にこぎつけたのか。その、唯一の手がかりが、伊是名島にありました。
第二尚氏王統の始祖「尚圓」を生んだ島、伊是名島。
金丸、のちの尚圓は1415年、百姓の子として産まれました。24歳で島を出ることを決意し、王府に仕えた金丸はたぐいまれなる才能から、第一尚氏王統が滅びたのち、国王へと上り詰めます。
島には、今も、大干ばつの時にも枯れることがなかったと言われる金丸の田んぼや、金丸の親族で、特別な役職が与えられた4家「四殿内(ゆとぅぬち」の屋敷などがたたずんでいます。
そんな伊是名島と尚家のシーミーをつなぐ手がかりはこの古文書です。
1870年、「伊是名玉御殿でも首里同等のシーミーを行うように」との国王からの命令により、役人たちが作成した指示書、いわゆる“マニュアル本”。シーミーをどのように執り行うかが、事細かに記されています。専門家は…
安里進さん「伊是名の玉御殿というのは首里の玉陵に準じてやった。お供え物はどういうものを供えてどういう風に並べて鯛もしっかり釣って準備をしてとか釣れない時は塩漬けの魚でいいとか細かいマニュアル書があるので当時のものをかなり再現できる」
150年前の古文書が語る、伊是名島で行われた王府直轄のシーミー。尚家のシーミー復活の、大きな手掛かりです。さらに、この貴重な記録だけではなく、シーミーそのものが伊是名の人々によって、今なお受け継がれていました。
伊是名玉御殿。ここで、今も行われているシーミーとは。なぜ、首里から100年後、伊是名の地でシーミーを始めることになったのか。そこには、今に続く琉球の人々の思いがありました。