喜納千鶴子(きなちづこ)さん「私、ちるぐゎーよ!覚えている?」
幼馴染「あー!ちるぐわーね?戦争が終わってからだから・・・もう十数年ぶりにあうねーなど」
数十年ぶりに幼馴染との再会を果たした女性。数え95歳を迎える喜納千鶴子(きなちづこ)さんです。農家の娘として生まれた喜納さん。農業で生計を立てながら家族や友人と楽しく故郷で暮らすことを夢見ていました。
そんなささやかな幸せが戦争によって奪われてしまったのです。
戦前、喜納さんが暮らしていた「桃原(とうばる)」、現在の本部町豊原は、作物がよく育つ肥沃な土地だった為、「豊原(ゆだなばる)」と呼ばれていました。
喜納さん「お家から本部富士が見えたからさ太陽がこうして上がってきた毎朝太陽を拝んでから畑にいきよったから。してまたふりむくと伊江島に太陽がおちるのもみえるさーね最高の場所だと私は言いたい!!」
農業で生計をたて何不自由のない暮らしを送っていた喜納さん。しかし、22歳の時、沖縄は戦場と化しました。戦火を逃れて、現在の名護市にあった収容所などで家族身を寄せ合いなんとか命をつなぐも、故郷に戻るとそこに待っていたのは残酷な現実でした。
家も畑も米軍の飛行場と化し、跡形もなく消え去っていたのです。
喜納さん「大声で泣いた!もうこれから農家できないって。お父さんとお母さんもそこで泣きよった。土捕まえてもうこんななったんか・・・といってもう農家できないから自分たちは那覇にいこうねーって・・・」
やむなく故郷を離れ、生活の糧を求めて那覇に移り住むも、慣れない土地での生活は過酷なものでした。子どもを背負いながら国際通りで物売りをした時の記憶が今でも鮮明によみがえります。
喜納さん「通る人たちにお願いします!お願いします!でしょ?なんで戦争になってこんな哀れしないといけないかねって子どもは泣くし、自分は悔しさで泣くし・・・。戦争をうんと恨んだ」
それでも、マラリアにかかりながらも生還した意地、そして、戦場に散った最愛の兄や親友の分まで生きようとがむしゃらに働き、30歳の時に構えた雑貨店の店主を今でも現役で続けています。
しかし、歳を追うごとに故郷への思いは強くなるばかり。そんな思いを綴った琉歌があります。
喜納さん「戦世になやい畑や石砕道御先祖ぬ苦難語て忍ばさあ涙すらど桃原友皆産子互に肝合わち親元ぬ御恩忘てくぃるなさあ勝る繁盛!」
荒れ果ててしまった故郷を憂い・・・
一方で、故郷の友人やその子供たちの幸せを願い・・・
そして故郷が栄えるようにと願いを込めた歌です。
喜納さんの生家や畑があった上本部飛行場跡は1971年に米軍から返還されましたが、復帰前だった為、軍転特措法の適用外で原状回復の義務もなく、補償もないまま一方的に返還された土地です。
その後、自衛隊基地建設などの跡地利用の話が持ち上がりますが中止になり、戦後72年経った今もほとんど当時と変わらない状態が続いています。
喜納さんは戦前の豊かな故郷の姿が取り戻せるようにと願ってやみません。
喜納さん「故郷の友人やその子供たち互いに心をあわせて祖先に感謝を忘れないでさあ、もっと栄えてください」