川平永光さん「鹿川でみんな死んでいるんですよね。この人たちの遺骨だよということまでは(父親から)私聞いていましたので、いつか埋めに行かんとなと」
西表島西部の内離島。戦時中は日本軍の要塞が置かれた島です。この内離島の海岸に20年前、船の残骸が確認されました。これが当時、撮影撮された写真です。私たちは今月、内離島の海を歩き回り、船の残骸を捜した。
大田静男さん「私が今から20年前近くに案内していただいた大城清三さんという方が、この船が安東丸だということをおっしゃっていました」
安東丸とは一体どういう船だったのでしょうか。
長崎県に安東丸などを調べている研究者を訪ねました。西口公章さんです。
西口公章さん「戦争末期になると、食料が南部の方から入ってこないので、唯一、日本海の反対側にある満州、それに朝鮮ですね、日本の植民地だった。そこから食料を運ぶための船なんですよ」
食料を運ぶ船は「ジャンク船」と呼ばれ、日本陸軍が中国北東部の安東市で、それこそ中学生も動員して造らせた食料運搬船でした。その写真が佐賀県唐津市の近代図書館にありました。全長は32メートル前後だったと記されています。
西口公章さん「昔の帆船ですね、それに乗せて日本本土の仙崎(山口県)とか唐津(佐賀県)とか、そこに集積地というんですか、食料を貯めるとこを軍が作って、ここに武器もほとんど持たずに運ばしている。大連の方から下りてきて、済州島、対馬近海から佐賀の唐津にくるルートなんですけど、だから対馬なんかにもたくさん漂着してるんですよ」
その一隻が西表島に漂着したのだろうと、西口さんはみています。
石垣島在住の川平永光さんは、西表島西部の廃村となった網取集落出身。父親の永美さんから安東丸のことを聞かされていた。
川平永光さん「(Q安東丸という言い方は(お父さんの)永美さんはなさっていましたか?)その船の名前もはっきり言ってね、穀類を一杯積んできて、これみんな(軍隊が)没収したというものもはっきりしている。これを自分(父)たちが運んだということもはっきりしてるんですよ」
その後、乗組員たちはどうなったのでしょうか。乗組員たちは、舟浮要塞の陣地構築や、弾薬運びなど、危険な労働作業を強いられていたと言います。
大田静男さん「食料はわずかお粥のようなものを茶碗の一杯ぐらいづつ、本当にみじめな食事だったというふうに、それを見ていた西表の人たちが話されておりました」
そして終戦前後、安東丸の乗組員たちは西表島でも陸の孤島といわれる鹿川に、日本軍によって放置されたということです。
川平永光さん「実は父から、そこに骨があると言われたもんだから、向こうで3回くらいキャンプしていますね。頭の骨とか、ほかもあったもんだから、何体とは数えなかったね、あの時は。とにかく数としては割とありました」
川平永光さん「(Q酷使されて、最終的に鹿川に連れていかれて放置されたという言い方はされていましたか?それは(お父さんの)永美さんもそういう話は?)そういう話はしていました」
戦後72年、石垣島と八重山諸島は自衛隊の配備計画に揺れています。
大田静男さん「ここは舟浮要塞が造られた場所です。戦前の軍隊のやってきたものと、現在行っている自衛隊配備計画とは、何も変わっていないということですね。歴史の教訓から本当に学んでいるのかと言いたいですね」
戦後72年を経ても、船の残骸は今も海に残っています。
西口公章さん「民間の普通の人がですよ、家族がいるのに引っ張られて行って、おまけに武器もない船に乗せられて、そういう目にあったということを知らないですよね、みんなね」
川平永光さん「葬ってあげたいなという感じはしますね、これは人間として。父から、こういう人たちの骨だよと聞かされていますし、現に、私自身も見ているしね」
戦争で犠牲となった名もなき人たち。どこで生まれ、育ち、家族もあったであろう人たち。異国の地で、無残な最期を迎えた安東丸の人たちの無念は、けして埋もれさせてはいけません。
西口公章さん「誰かがやっぱりこういうのを記録しておかないと。もうその人たちの人生、何かと思いますもんね」