このように普天間の返還合意発表から21年が過ぎましたが、過重な基地負担は今も変わっていません。今の沖縄を戦争体験者はどう見ているのか。鉄血勤皇隊として沖縄戦に関わったある男性の思いを取材しました。
儀間昭男さん「僕の同級生は、120名くらいいたかな。その中で生き残ったのは、大体3分の1くらい。どうせ自分たちも自決するんだと。僕らも手りゅう弾持っていたので、自決用の。死に対しては怖れはなかった」
沖縄戦当時、元鉄血勤皇隊だった儀間昭男さん。いまは子どもたちに書道を教える傍ら、2年前から毎週月曜日に、地域の人たちと那覇市の街頭で辺野古新基地建設反対を訴えています。
沖縄戦当時、那覇の師範学校に入ったばかりの儀間さんは、鉄血勤皇隊として動員され、首里の陸軍司令部近くで昼夜を問わず壕を掘り続けました。
儀間昭男さん「泊のほう、海のほうから真正面だから、この壕は。瞬く間に木も林も全部なくなって。弾がどんどん飛んでくるから、作業場の行き帰りが大変。危なくて。遮へい物も何もないしね」
切り込み隊として亡くなった友人もいて目の前で多くの命が消えたといいます。
儀間昭男さん「トイレの最中に弾に当たるとかね。49あるいは、済んで慌てて入り口に逃げ込もうとして、そこでまた運悪く弾に当たるとかね」
5月には、糸満市摩文仁に撤退することになりますが、その道のりは、壮絶なものでした。
儀間昭男さん「道路という道路は死人の山。口の中にウジが出たり入ったり、重なって死んでいる。28何十名も。31道路の中に。手がちぎれたり」
こうした戦争体験について、60年以上口を閉ざしてきた儀間さん。重い口を開いたのはつい10年前です。
儀間さんは、右傾化する日本に危機感を覚えたといいます。
儀間昭男さん「こんな幼稚園の子どもに、教育勅語なんて、暗唱させるなんておかしいでしょ。どう考えても、また、昔に帰ったなという感じがしますよ」
21年前の普天間返還合意についても、原点は、沖縄戦にあると考えています。
儀間昭男さん「普天間以上に辺野古ができるわけ。余計に悪くなると思う。基地があるから訓練するんであって、兵隊は雇っておいて、訓練をしない軍隊ってないですよ。軍がいては、まともな話はできないと思う。表面的には、協力しているような顔つきをするかもしれないが、軍なのに。人を殺す仕事なのに」
儀間さんは、これからも街頭に立ち続けたいと話しています。
儀間昭男さん「死んでいった同僚とか、連中にも供養になるだろうと。28生き残った者の、一つの務めとしてね。やっているわけですよ」
儀間さん「戦の世の哀、知らん者達が、辺野古埋み立てて、悪事工り」
「戦争の哀れさ惨たらしさ、はかなさ、そういうのを知らない人たちが、集まって辺野古を埋め立てて悪いこと企んでるという意味です」