特集です。読谷村にあるチビチリガマという壕をご存知でしょうかこの場所で72年前の4月、集団自決によって10代の子どもたちを含む85人が犠牲になりました。
「悲劇を二度と繰り返さない」と、先日、慰霊祭が営まれました。
與那覇さん「このウチナーから、このユンタンザから、このチビチリガマから世間との和合(平和を)をお願いします」
先週土曜日、暗いガマの中で営まれたのは慰霊祭です。
1945年4月1日、アメリカ軍は圧倒的な勢力で沖縄本島読谷村に上陸。その翌日、追い詰められた住民達が隠れていたチビチリガマで悲劇はおきました。当時6歳だった上地竹さん。母親と兄弟の家族8人でチビチリガマにいました。この日は高齢になって来られない遺族の思いを託されていました。
上地竹さん「(遺族の)比嘉カマドさんていう、いろんなこと証言していたばあちゃんなんですけど、いまいくつなるかな・・100歳。ちゃんと名前書かれてるから、自分の息子の名前顔をふいてあげてねって、水であらって絞って私に持たせてくれたんです」
ガマに隠れていた140人のうち、愛する家族が互いに殺し合う集団自決の犠牲者は85人です。
「18歳の女性が「敵にやられるよりか、お母さんの手で殺して下さい殺して下さい」と膝まづいて願うんだよね」
「どこかのお父さんが自分の家族を殺すと言っているのです真っ暗な中で殺しあっているような叫び声が聞こえ、包丁で刺されたのでしょうか「お母さんよー、お母さんよー」とどこかの娘さんがわめいていました」
「母親が息子に馬乗りになってドンドンドンドン包丁で突いた。「長男だから、自分の手で殺す」と言って」
犠牲になった85人のうち実に6割を占める50人が、10代の子どもたちでした。上地さんの家族は全員無事でした。しかし、戦後、チビチリガマを語ることは許されませんでした。
上地竹さん「あれなんだったんだろうって聞こうものなら、兄貴や親たちが手をバーンと叩いて、シッ、あそこのこと口に出すんじゃないって言われて。みんな口封じしてましたからね。知ってる隣近所の人たちがみんな亡くなっているから」
チビチリガマの出来事が語られるようになったのは戦後38年を過ぎてからです。
上原豊子さん「注射を打つための列、それから、あの辺で、お母さんに背中包丁で叩かれて痛い痛いして泣いてる声も聞こえますね」
ガマの中で起きた72年前の地獄の光景をきのうの出来事のように語る生存者もいました。戦後72年、チビチリガマが今の私たちに問いかけるものはなんなのでしょうか。
上地竹さん「平和を願うだけです」