日本語ブームを迎えているベトナム。学生たちに囲まれ、笑顔を見せるのはグエン・ド・アン・ニエンさん。
彼女は沖縄在住のベトナム人です。今回は沖縄の市民グループのメンバーとして里帰りしました。
グエン・ド・アン・ニエンさん「凄い嬉しいです。超久しぶりだし」
ニエンさんは名護市で夫と子どもと共に暮らしています。
グエン・ド・アン・ニエンさん「ヌクマム、ベトナムの魚醤。普通は毎日使っています。無いと物足りないですね」
留学生として来日し、同じベトナム人留学生の夫と結婚して2人の子どもをもうけたニエンさん。子どものころ祖国は、戦争が終わったばかりで、大変な苦労がありました。
グエン・ド・アン・ニエンさん「2回も母親とおばさんたちと難民船に乗ったことがあると聞きました。で、やっぱり海まで辿りつかなくて、つかまって、戻りましたけど」
アメリカやソ連などの大国を後ろ盾に国が南北に分かれ戦ったベトナム戦争。1975年に戦争は終わりましたが、その後も、国の混乱は続きました。負けたアメリカについていた南部の人々の多くが貧困と社会不安から海外への脱出を試みたのです。
今から40年前、ベトナム難民がここ与那国島に自由を求めてやって来ました。1977年5月、与那国島の久部良港に、小さな船が漂着しました。与那国で密航監視員をしていた崎原さんは難民船を目撃し、警察に通報しました。
崎原さん「エンジンもついていないよ。今にも船から溢れ出そうな人が乗っていたよ。食べ物も無かった、かいも無かったと思うけどね。どんなしてこっちに来たのかって不思議でしようがなかった」
小さな船には子どもや乳幼児を含む27人が乗っていました。着の身着のまま、命がけの航海だったのです。当時、与那国町の助役だった金城さんはこう話します。
金城さん「そりゃあ困惑しましたよ。言葉もまずわからないし、家族連れもいたんですね。子どもも。実際困るんだけど、やっぱり人道上、すぐ帰すわけにもいかないし」
地域の人たちは疲れ果てた人々を助けようと、服を差し入れ、炊き出しをしました。
これで、スープを作っていたわけ。二つないと間に合わなかった。ご飯はシンメー鍋で炊いていた。
松村さん「スープ、チキンとか冬瓜とか入れてあげたり、豚肉とかあげたりした」
松村さんは彼らの世話をする中で、交わした会話を覚えています。
松村さん「どうしてあんな所から逃げてくるの?って聞いたら、生活が苦しいとか何とか言っていましたね。自分の想う所に逃げたい、行きたいと言っていました。よくもこんなに小さな船であれだけの人が乗って来るというのは大変な命がけだったんでしょうね。どこにいるのかね今頃ね」
難民船に乗って来た人たちはしばらくして本土の施設に移されました。彼らが今どうしているのか、島の人たちはずっと気にかけています。ニエンさんは去年、こんなことにも挑戦しました。QABがベトナム国営放送と共同制作したドラマには通訳として参加しました。
グエン・ド・アン・ニエンさん「なかなかベトナム人に沖縄の良い所とか景色を伝える機会が少なかったので、今回のドラマでみんなと一緒に伝えたいと思います」
難民船で2度脱出を試みたニエンさんの家族、結局失敗し、彼女は貧しい祖国で必死に勉強しました。今は、沖縄を拠点にベトナムの子どもたちの支援をしています。
グエン・ド・アン・ニエンさん「ぜひ娘たちにも、同じ年代の友だちがベトナムでこんなに物を大事に使って頑張っているんだと沖縄に戻ってから伝えたい」
ベトナムと沖縄の懸け橋になりたい。一人のベトナム人女性の奮闘は続きます。