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シリーズつながるです。第二次世界大戦中フィリピンに取り残された残留日本人2世はおよそ3500人。

その残留日本人2世で幼いころに父親と引き離されたが3人のきょうだいが今月1日、戦後71年にして初めて故郷の地を踏みました。

つながる × 家族の絆 戦後71年 初めての里帰り

ハイメさん「やっとお墓に行ける時が来ました。父が生きている間に会えなくて残念だけれども、戦争があったから仕方ないですね」

光子さん「姉さんたちが父ちゃんに会いに来たんだよ。よかったね。よかったね」

光子さん「今日あえるのが本当に夢のようで。苦労なさったでしょうねと思います」

空港にいたのは、この日を長い間待ちわびていた、フィリピンから訪れるきょうだいの義理の妹・嘉味田光子さんです。

つながる × 家族の絆 戦後71年 初めての里帰り

多くの親族に出迎えられたのはフィリピン残留日本人2世冨里・サロメ・フミコさん、冨里・ハイメさん、冨里・カリダッド・カズコさんのきょうだいです。

ハイメさん「父親の故郷の地を踏むとは思いもよらなかったけれども、皆さんの応援のもと、日本に来られてよかったです」

冨里さんたちが戦後71年にして初めて故郷を訪れた理由。それは過去にありました。

1890年代から、およそ3万人の日本人がフィリピンへ移住しました。冨里さんらの父親・樽二さんもそのひとりで、フィリピン女性と結婚。8人のこどもにも恵まれました。

しかし第二次世界大戦が始まると、冨里さん家族は戦争に翻弄されます。

フミコさん「戦争になると私たちの家は反日組織に焼かれてしまいました。そのあとからは貧乏な生活が始まりました。父は日本へ強制送還され、連絡がとれなくなりました」

戦後の強い反日感情の中を生き抜くため、日本人2世たちは無国籍になることを顧みず、出生証明書を焼き捨てるなどして日本人であることを隠したといいます。

戦争終結から10年以上経ち、冨里さん家族は父・樽二さんが沖縄にいることを知りましたが会いにいくことはできません。手紙のやりとりだけが父親と家族を結ぶつながりでした。

父・樽二さんは28年前に亡くなりました。

ハイメさん「父のお墓に来られたのはみんなのおかげです。長い間離れていたけれど、やっと会えました。戦後は貧しかったが、兄弟が結束して母親を支えようとがんばった。だからなにも心配しないでください、安心してくださいと伝えたいです」

カズコさん「こんな日が来ると思わなかったです。遅くなったけれども父親と話しができてよかったです。自分が生きている間に日本の家族に会うこともできてうれしいです」

フミコさん「光子さんにお礼を言いたいです。父親が亡くなるまで面倒を見てくれてありがとうと。自分たちが父親の子どもですから、面倒をみるべきだったのに不可能だったので、お父さんにお許しくださいと伝えました」

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冨里さんたちにとっては、71年の空白を埋める3日間でした。

ハイメさん「みなさんの優しさ感じました。また会いましょう。みなさんのことはいつまでも心の中にあります。死ぬまで忘れません」

冨里さんたちは、旅の終わりに未だ残されている課題を伝えました。

『他の2世から日本の家族に会えて本当にうらやましいといわれました。自分たちは運がよかったです。今も不幸な2世がいます。彼らが家族に会えるように願っています』

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