具志堅さん「この亡くなった人に、あるいは亡くなった人が残したものに語らせたいんですよ」
さて、23日は「慰霊の日」です。沖縄戦から71年になることし、沖縄戦の悲惨を語る声に耳を傾けます。シリーズ「だから私は語る」。
初日のきょうは、71年の時を越えて見つかった日本兵の遺品があります。沖縄戦で犠牲になった青年が残したその遺品が語る思いとは。
知らない土地にやってきた、ひとりの男性。沖縄戦の遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」の具志堅隆松さん。この日、1人の日本兵の遺族の自宅を探していました。彼が残した「遺品」を71年ぶりに届けるためです。
那覇市上間に住む、大城清行さん。沖縄戦の2年後、当時、小学生だった大城さんは、近所の壕の中で、「その遺品」を見つけました。
大城清行さん「結局元に戻せなくてずっと私の家に保存されていたんですね。」
それは、戦時中、日本兵が食器として使っていた「飯ごう」です。フタには、カタカナで「キダチ」と彫られていました。今年、ふと、その飯ごうの存在を思い出した大城さん、「遺族に返したい」と具志堅さんに相談したのが始まりでした。
具志堅さん「あまり聞いたことがない名前だったので、探せるかもしれないなって思いました。」
糸満市の平和の礎を調べてみると、「キダチ」の名字は一人だけ、「木立寛藏」さんの名前がありました。
寛藏さんのふるさとにやってきました。
具志堅さん「こんな遠いところから来たんだなと言う風な」
そこは・・・青森県でした。
「遺品である飯ごうを小包で送ることがどうしてもできなかった」という具志堅さん。そこには、長年、沖縄戦の遺骨収集を通じて感じてきた日本兵に対する思いがありました。
具志堅さん「戦争の犠牲者です。同じ犠牲者として、手を差し伸べるということ。」
具志堅さん「こんにちはー。すみません。こちらは木立さんでしょうか?」
木立寛藏さんの実家では、遺族が具志堅さんの訪問を待っていました。仏壇には、軍服姿で微笑む青年の写真。
山谷真佐子さん「(戸籍を見せる)寛藏。戦死」
木立家の戸籍には、寛藏さんが25歳で「首里で戦死した」と書かていました。
当時、日本軍の司令部が置かれていた首里は、アメリカ軍の猛攻撃を受け、多くの日本兵が戦死した場所。
具志堅さんは、負傷した寛藏さんが、治療のため、壕に運ばれ、そこで亡くなったのではないかとみていました。
具志堅さん「歩けない重症患者、みんな這って逃げようとして、たくさんこう・・・みんな這っていたと・・・。でもそういう風に、病院に運んでもらえたほうがまだ良い方だったと思いますよ」
山谷真佐子さん「“お国のため”というのがまず一番で、行きたくなくても行かなきゃいけないという。どういう気持ちだったのかな・・・」
具志堅さん「すみません、この飯盒なんですけど。ここに「キダチ」と彫ってありまして・・・。」
木立さんの家には、一枚の手紙が残されていました。沖縄戦が始まる3カ月前、寛藏さんが沖縄から青森の家族へ宛てたものです。
「元気ですか。沖縄ではまだ稲や草木も青々と茂っています。故郷では、収穫に追われている頃だろうと、思いを馳せています。みなさん、どうぞ体を大事にしてください。」
沖縄戦から71年。寛藏さんの遺骨の代わりに、たったひとつの飯盒だけが、帰ってきました。
戦後もずっと、息子の死を悲しみ続けていたという両親と、ようやく同じ場所で眠ることができるのかもしれません。
木立チヱさん「71年にもなってこういう風になって、(寛藏さんは)帰りたかったんだべなーと思って。二度と・・・こういうことないようにしてもらいたいなぁ。」
具志堅さん「人を殺すことが間違っていること、それから人に殺されるのを認めるのも間違っているということ。二度と、戦争を起こさないでくれ、まさにそれを声なき声で言っているのかなっていう気はします。」
25歳の若さで人生を奪われた、ひとりの日本兵、木立寛藏さん。
沖縄戦で犠牲になったおよそ20万人の中で、遺骨や遺品によって、いつ、どこで亡くなったのか判明したケースは、具志堅さんが知る限り、わずか5人だけです。
沖縄戦の犠牲者、およそ20万人。それぞれに、大切な家族がいて、人生があった。そのことを考えると戦争が奪ったものの大きさを感じます。
これほど大変な被害を前に、戦争を肯定することなど決して出来ないのだと、声なき声は訴え続けています。