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普天間返還後の街の未来を20年前、ジオラマに託した高校生たちがいました。

基地が返還されたら…。かつて普天間基地の跡地に「夢の街」を思い描いたのは高校生。あれから20年、当時の高校生たちは今何を思うのでしょうか。

新垣功二さん「わー細かいね。」

玉里弥紅さん「懐かしいね。」

Q+リポート ジオラマに託した”夢の未来”01

普天間高校の卒業生、新垣功二さんと、玉里弥紅(みぐ)さんです。

新垣功二さん「遊園地、こういうのが県外にあるようなショッピングセンターとか。おしゃれな建物っていうイメージで作っていて。たぶんあれとか(渋谷の)109イメージしている。(笑)東京タワー、あの時まだスカイツリーないので、返還されたら普天間タワーっていうのが欲しいと言って作った覚えがあって。」

近代都市のジオラマ。高校1年生の時、ふたりがクラスのみんなで作ったものです。当時ふたりの担任だった、比嘉良徳(よしのり)さん。生徒たちが卒業した後も、このジオラマをもって、各地の学校を転勤してきました。

当時普天間高校教師・比嘉良徳さん「ぜひこれは作ろうと思った。普天間基地返還記念碑。」

Q+リポート ジオラマに託した”夢の未来”02

この街は、普天間基地の返還跡地に描いた、生徒たちの「夢の街」でした。高校1年生の時、文化祭の出し物としてこのジオラマを作った生徒たちのもとに、翌年、普天間返還合意のニュースが舞い込みました。

新垣功二さん「5年後、6年後には返還されて、すごい街並みがあって、みんなが遊べるところが増えるんだっていう感覚がありました。」

あれから20年、今も普天間基地は、新垣さんの自宅の目の前に在り続けています。基地があって当たり前の環境で育った新垣さんですが、それが「当たり前ではない」と気付かせる事件が12年前に起きました。

2004年8月。普天間基地所属のヘリが沖縄国際大学に墜落。住宅街にはヘリ残骸が飛び散りました。

新垣功二さん「それ以降はそういう危険があるんだって、再認識・・・初めて認識したに近かったかもしれない。」

Q+リポート ジオラマに託した”夢の未来”03

基地がはらむ危険性。それは、子どもをもつ母親になった玉里さんも感じていました。

玉里弥紅さん「アメリカの人たちが返すって約束しているけど、まだ返されてないわけ。お母さんが高校生の時に返すって約束したんだけど、まだ…。戦争になったら、爆弾積んで飛んでいくわけ。戦争しにいく飛行機たちなんだよ。」

約束が果たされないまま、今では普天間基地の「危険性」を理由に、辺野古への移設が進められようとしています。

玉里弥紅さん「移設してしまったら、結局そこの人たちが苦しむんじゃないかなって思って。移設に賛成するのも難しい立場だなって思ってて、でもここにも置いていてほしくないし、複雑ですよね。子どもたちが安心で楽しく過ごせる街になってほしいなって思いますね。いつになるのかなって思うんですけど・・・。」

生徒たちが普天間基地の跡地に描いた「夢の街」。約束されていた「返還」が、「移設」問題とされてしまった今、生徒たちの夢は、実現しないジオラマの模型のまま、そこに残されています。

玉里さんが高校生の時代、生まれた頃から、普天間基地がありました。そして子どもを持つ親になった今でも、基地は在り続けています。

翁長知事は返還合意20年のコメントの中で「将来の子や孫に禍根を残すような気持ち」と話しました。

Q+リポート ジオラマに託した”夢の未来”04

まさに、20年前の約束は果たされないまま、次の世代へ夢を託すのか。その複雑な思いは、玉里さんの時代だけでなく、戦後沖縄の人々が70年あまりにわたって背負い続けてきた禍根でもあります。