シリーズ戦後70年「遠ざかる記憶・近づく足音」です。先ほど古式行列で賑わった首里城祭りの様子をお伝えしましたが、その首里城にあった万国津梁の鐘について。数奇な運命をたどった鐘が、今の時代に伝えるメッセージとは。
首里城祭初日の夜、首里に鐘の音が響き渡ります。1458年、尚泰久(しょうたいきゅう)の王の命令で作られた鐘。「旧首里城正殿鐘」通称「万国津梁の鐘」。この鐘に刻まれた銘文の冒頭には、「琉球王国は南の海にある美しい国で船を万国の架け橋にして貿易によって栄える国である」と記されています。
首里城ガイド「この鐘が作られた1400年代の琉球王国は、争いが多く、国が安定しない時代でした。国王は仏教で国を安定させようと考えて、首里城周辺に多くの寺と鐘を造ったのです。」
世界の架け橋となり栄えたこの国を誇りに思い、平和な世界を願って造られた万国津梁の鐘。しかし、その願いも虚しく、沖縄戦へと巻き込まれ、激動の時代をみることとなります。
平良博さん「(Q.鐘があったというのは?)こっちの方にあった石柱が2つあって、こっちにあった。(Q.鐘は何に使われていた?)そのまま立てられていた。(Q.撞くとか?)そういうのは全然なかった。」
うるま市石川東恩納。1945年8月。アメリカ海軍の教育担当ハンナ少佐により、この場所に焼け残った文化財が集められ「沖縄陳列館」が開設されました。翌年には、「東恩納博物館」として琉球民政府に引き継がれ、戦後沖縄の博物館の礎となります。
その博物館の象徴として門の前におかれたのが、戦火をくぐり抜け、数々の弾痕が残る「万国津梁の鐘」でした。なぜ、戦後すぐアメリカ軍が焼野原から文化財を集めたのか。県立博物館の園原学芸員はこう話します。
園原学芸員「やはり琉球王国という一国をなしていた人々がいたという雄弁な資料がこの鐘なんですね。ですから米軍にとっては資料的な価値は十二分に認識をしていただろうし、銘文がそれを語っているわけですから、いち早く文化財として展示に起用された。」
首里城陥落を目指したアメリカ軍。鐘に残された傷は、今でも70年前の戦闘の激しさを物語っています。
園原さん「こちらの方の弾痕のあとや、引きずったあとチチが取れていたり、戦火を潜ってきた生々しい傷跡が残っている。そういう意味では『奇跡の鐘』と言える。」
沖縄戦では、文化財のほとんどが焼きつくされました。博物館にはその奇跡を象徴するような展示もあります。
園原さん「実は朝鮮鐘といってこの竜頭があって頭の部分しか残っていない。実はその近代において廃仏毀釈や戦時中の金属の供出で実は金属製品は破壊された。こういう風に残っていることが稀。」
鉄の暴風の中、奇跡的に残った「万国津梁の鐘」。550年前に平和を願って造られたその鐘は戦後70年の今、私たちにどんなメッセージを訴えているのでしょうか。
戦時中、鉄は貴重な資源として溶かして武器に変えたというエピソードは有名ですが、その中でこの万国津梁の鐘は残されました。県立博物館には万国津梁の鐘を含め7つの鐘が展示されています。そこには、鉄の塊にされることを防ぎ、琉球の文化を守ろうとした人がいたのではないかそんな思いにもさせてくれます。