さて、こちらはちょうど今から20年前のきょう少女への暴行事件に対し、県民の怒りが爆発した県民大会の様子です。大会は超党派で開催されましたが、あの時、大会の実行委員長として壇上に登った、自民党の嘉数知賢さんに大会についてお話を伺ってきました。
女子高校生「いつまでも米兵に怯え、事故に怯え、危険にさらされながら生活を続けていくことは、私はいやです、未来の自分の子どもたちにも、そんな生活はさせたくはありません。」
1995年10月21日、県民大会の会場は、約8万5000人(主催者発表)の怒りに包まれた。
大田昌秀元知事「行政の責任者として、一番大事な幼い子どもの、人間としての尊厳を守ることができなかったことについて、心の底からお詫び申し上げたいと思います。本当に申し訳ございませんでした。」
嘉数知賢さん(当時)「ガンバロウ!」
嘉数知賢さん(当時を振り返って)「正直言うと足が震えた。壇上に上がって見たら、ものすごい人だから、足が震えて、心が震えて。」
当時、大会の実行委員長を務めた自民党の元国会議員の嘉数知賢さん。(現在自民党県連顧問)県民大会から20年について伺った。
嘉数知賢さん「苛立ちというのか、集まってきたのは今の沖縄の現状を変えることもできない。そのイラ立ちが出てきた。それが怒りになって集まってきたと思う。」
この大会を受け、日米両政府は、それまで、アメリカ兵による凶悪な犯罪が起きても、基地に逃げ込めば逮捕さえできなかった日米地位協定の運用を改善。
しかし、その内容はアメリカ軍の「好意的配慮」がなければ、身柄は引き渡されることはない。というものだった。また、SACO合意によって普天間基地の返還も約束されたが、未だ実現していない。
嘉数知賢さん「SACOが出来て・・・ちっとも変わらっていない。私はこれはね日本政府の怠慢だと思っている。」
そして20年たった今、当時と同じように沖縄と政府が対立し法廷闘争を見据える状況に至っていることについては・・・。
嘉数知賢さん「なぜもっと、きちっと説明をしてもっと県民と向き合って物事を進めようとしないんだ。そう思っている。随分高圧的だな。気持ちの上で沖縄人をなんだと思っているんだ。」
嘉数さんは、今でも沖縄の県民は苛立ちを持ち続けているが、当時と違っているのは、沖縄のことを真剣に考える政治家が少なくなったと漏らしていて、今後の想定される法廷闘争を心配されていました。