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71年前の8月22日、疎開船「対馬丸」がアメリカ軍の攻撃を受けて撃沈し、幼い子どもたちなど約1500人が犠牲になりました。この疎開計画は、沖縄戦が迫る中、戦闘の妨害になりかねないお年寄りや子どもたちを県外に疎開させるよう政府が出した命令に基づくものでした。

そんな犠牲者の中にこのふたりの男女がいました。これまで他人同士と思われてきたふたりには、知られざる物語がありました。

対馬丸記念館・学芸員 慶田盛さつきさん「こちらがふたりのお写真になります」

那覇市の対馬丸記念館に、掲げられている男女の写真。男性は、池宮城秀則さん。(垣花国民学校教師、当時26歳)。女性は、静子さん(当時19歳)。静子さんはこれまで「比嘉静子さん」として記録されていました。

対馬丸記念館・学芸員 慶田盛さつきさん「池宮城秀則さんの名簿を調べてみたら、生年月日が書いてなかったもので、遺影(のファイル)を確認したら、池宮城秀則さんと比嘉静子さんおふたりの写真が一緒に入っていたので、あれ?と思って。」

旧盆、ウークイのこの日。亡くなった秀則さんの親戚が集まっていました。仏壇の位牌には、秀則さんの名前の下に「妻・静子」とありました。

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池宮家の人々(秀則さんの甥たち)「すぐ亡くなったと分かった時点で、位牌にはふたりは同じ名前(名字)での載せた。ふたりはずっと「いいなずけ」の形で、結婚間近だったものですからね。」

秀則さんと静子さんは、同じ地域出身の婚約者だったのです。ふたりを亡くして71年。現在も、秀則さんの甥や姪、静子さんの叔母や妹など、親戚同士の交流が続いています。

豊里和子さん(秀則さんの姪)「非常に穏やかな叔父でね。美男美女だねという印象はあります、子ども心に。」

大城順子さん(静子さんの妹)「(姉・静子さんは)とにかく勉強する人だったの覚えている。空襲があっても、押入れに入って、ろうそく付けて勉強していた。そういうの印象に残っています。」

そんな真面目な静子さんに、当時国民学校の教師だった7つ年上の秀則さんは想いを寄せるようになりました。

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比嘉文子さん(静子さんの叔母)「(秀則さんは)垣花国民学校の教員をしていたんですよ。夏休みになったら(里帰りしたけど)自分の家に帰らないですぐ私が嫁にいっている比嘉に真っ直ぐ来た。(周りの声「これ初めて聞いた〜!」)「あんたうちは行かないで」と言ったら(秀則さんは)静子さんがいるから」

勉強熱心だった静子さんは東京の大学に進学する夢を抱いていました。しかし、静子さんは秀則さんの結婚の申し出をすぐに承諾。秀則さんと生きていく道を選びました。その約束の3年後、対馬丸での疎開計画が出たのです。

豊里和子さん(秀則さんの姪)「戦争が終わったら結婚しようという程度で・・・。(比嘉文子さん(静子さんの叔母))生徒みんな連れて、本土に行くあれだった、引率して。秀則さんは。そうしてただ婚約して、ふたり一緒に本土に行こうとして。」

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大城順子さん(静子さんの妹)「行っていいのか、どうしようかって、姉さんとっても困っていたの覚えている。そしたら親がね、母親が「沖縄は全滅するから行きなさい」って強制的に行かせたの。それは覚えている。」

そして、71年前の8月22日。突然のアメリカ軍の攻撃で、ふたりの命は奪われました。

大城順子さん(静子さんの妹)「秀則さんと姉がいたらよかったのにと思うんですよ。今でも姉が生きていたら、どういうあれになっていたかと考えるけど・・・」

比嘉文子さん(静子さんの叔母)「本当に戦争は二度とやってはいけないと、若い人たちにみんなに伝えておきたいと思います。あんな悲しい思いをさせたくないんです。若い人たちに。」

ふたりの物語を知った対馬丸記念館の慶田盛さんは、遺族と相談し、先月、静子さんの写真の名字を「池宮城」に変更し、秀則さんの隣に並べました。

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慶田盛さつきさん「(秀則さんは教師として)実際に子どもも間近にして、自分もいよいよ結婚できるということで、自分たちの子どもも早く作りたいと思っていたんじゃないかとか考えたりとか。帰ってきて、結婚して、実家で仲良く暮らせるという夢をすごく持っていたと思うんですよね。」

事件から71年。夫婦として並ぶふたりの写真は、「夢や、目標を奪った戦争を二度と繰り返さないでほしい」と私たちに語り掛けているような気がします。

記念館に掲げられたひとりひとりの写真を見ていると、亡くなった人それぞれに家族がいて、夢や人生があったのだと改めて思い知らされます。なぜ日本は戦争をしたのか。同じことを繰り返さないという誓いを強くするばかりです。