玉音放送「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び…」
今月、昭和天皇が録音した玉音放送の原盤が初めて公開されました。
「非常の措置を以(もっ)て時局を収拾せむ」と、ポツダム宣言の受諾と終戦を伝えた玉音放送。ラジオを通し、多くの国民が終戦を知ることになりました。
しかし戦禍を潜り抜け着の身着のまま逃げていた多くの沖縄県民は玉音放送の存在すら知らず、かろうじて放送を聞けた人はごくわずかでした。
那覇市にある「不屈館」戦後、沖縄の人権運動の先頭に立った瀬長亀次郎さんも、疎開していた北部で玉音放送を耳にしました。瀬長さんが記した回想録には、このように記されています。
瀬長亀次郎さん「天皇のいわゆる玉音放送を聴いたのもこの野戦病院のベッドの上でだった。『終わったか』とういうのがその時の実感だった」
また、この玉音放送をアメリカ軍の捕虜収容所で聞いた人がいました。
渡久山盛吉さん「天皇陛下も大きく言っていないわけよ。寂しがり屋のような言葉で言うもんだからよ。」
浦添市の渡久山盛吉(88)さん。戦時中、所属していた部隊の中で唯一生き残り、捕虜として連行されたハワイで玉音放送を聞いたといいます。ラジオから流れる、初めて聞く昭和天皇の声。「寂しそうな声に聞こえた」と当時を振り返ります。
渡久山盛吉さん「(Qどのような印象を受けましたか?)音声を聞いてもう「おしまいだな」と思ったよ。そうしたらね、何10分もたたないでしょ。(アメリカの戦闘機)200機ぐらいが全部、ハワイ中を(旋回して)」
「戦争が終わった」と人伝えに聞きながら耳にして、なんとか意味を理解したという玉音放送。放送が流れた後には、終戦を喜ぶ戦闘機が空を飛んでいました。
渡久山盛吉さん「「生きていて良かったな」と思ったね。ようやく生きたもんだから。51人から1人しか生きていないのに。」
多くの沖縄の人が耳に出来なかった玉音放送。それが流れた同じ日、沖縄では石川市に住民の代表120人余りが集まり、戦後、最初の行政機構となる「沖縄諮詢会」の設立に向けた話し合いがなされました。「戦後の始まり」を告げた玉音放送が流れたまさにこの日から沖縄では本土とは違った「独自の統治」が動き出そうとしていたのです。
それから70年…
翁長知事「(菅長官は)沖縄と思いがかい離があった事を踏まえて、「原点がやっぱり違うんですね」と。」
激しい地上戦を体験し、戦後はアメリカ軍に統治された沖縄。渡久山さんは政府の動きや戦後も残り続ける基地を見て不安から逃れられない気持ちを口にします。
渡久山盛吉さん「今戦争をしたら全部死んでしまうよ。」