沖縄戦の最中、現在のうるま市石川には民間人を収容する為の石川収容所が設置されました。戦争で父親を亡くし、民間収容所の劣悪な環境の中で弟も亡くした男性の思いを追いました。
石川正一さん「へんざ方面からアメリカ、グラマンが飛んで読谷向かうときに僕らちっさいもんだから友軍と思って「万歳、万歳」していて、しばらく30分したらサイレンが鳴ってアメリカが飛行機飛んでて今大変だから逃げなさいってね。逃げた経験があります」
アメリカ軍の沖縄上陸の前の年に起こった1010空襲の様子を語る石川正一さん(79)。日を追うごとに戦況は厳しくなり、1945年の3月、正一さんの家族6人は、生きて再会する事を信じ、皆バラバラに避難しました。
石川正一さん「お父さんが防衛隊として読谷のほうにいきまして。(父親から)私のばあさんと正一は長男だから石川に残っておきなさい。お袋と弟三名は北部のほうに避難しなさい」
結局、祖母と正一さんは、石川の人々と石川岳に逃げたもののアメリカ軍が間近かに迫り投降。山から下りると自分たちの地域は収容施設になっていました。正一さんの、この家も当時、収容施設として使われました。
石川正一さん「(投降して)4月に来たときは(自分の家に)もう入れないで、11月なったら読谷、嘉手納に自分の部落に引き上がったもんだから、ようやく入れるようになって、ここに住むようになりました」
うるま市の石川歴史民俗資料館で、開かれた収容所での人々の暮らしを紹介する資料展。戦争で傷ついた人々の様子や当時の生活品などを紹介しています。沖縄戦の最中、民間人を収容した「石川地区収容所」。戦前、人口2000人足らずの農村地帯だった石川には、およそ3万人の避難民が集められました。
そして7月には今帰仁に避難していた母親と兄弟とこの収容所で再会。北部には食べ物が無く痩せこけた姿だったと言います。
石川正一さん「宜野座から軍のトラックに乗っかって石川の南栄通りの方で降りてきて、初めて「お母さん」って抱きついて泣いたのが思い出がありますね」
北部一帯から多くの人が集められた収容所は衛生的に劣悪な環境で、マラリヤや赤痢が蔓延。命を落とした人が相次いだと言います。9月に入り、当時5歳だった弟正勝さんも赤痢で亡くなりました。
石川正一さん「あれだけの屋敷の中に200名の人が住んでますよね。トイレが水洗も何もない。もうそのまま穴掘って、そのまま埋めてね。挙句の果ては井戸水に汚水が流れて、真っ赤になって。5歳前後のうちの弟なんかは赤痢で亡くなってね。ちょうどあの時はもうお棺も何もない。亡くなった後は松林に埋めてこうやってやって」
去年、正一さんたちは、石川市の歴史を資料集にまとめました。中には当時の収容所の地図も載っています。
石川正一さん「1.2キロの中にね3万人の。当時の地図ですがね。戦後は3万人の人口まで増えましてですね。この人口増えても住む所っていうのは石川橋から石川中学校のこの間に密集して」
一方で、収容所では学校も始まりました。
石川正一さん「学校も4月の10日前後にはもう石川学園、城前学校ができたんですよ。して南部はね。まだ戦争やってますよね。」
そして防衛隊に取られた父、正亀さんは、組織的な戦いが終わったとされる日の前日6月22日に島尻で、アメリカ軍の艦砲射撃を受け戦死したと、一緒にいた日本兵から聞かされました。
父と弟を失った正一さんは、2度と戦争を繰り返してはいけないと子ども達や孫に戦争体験を伝えています。
石川正一さん「10年前から毎年(孫を)平和行進は連れて行ってるんですよ。(糸満を)歩きながら、曾お爺ちゃんはひめゆり塔の近くで亡くなったよ。って。大変苦労して亡くなったよ。」
戦後70年が経ち、年々、その戦争体験を語り継ぐ人が少なくなっていくことに危機感を抱いています。
石川正一さん「30歳の未亡人のお母さんでも95歳になりますからね。もう僕らが遺児が、どうにか手を上げて戦争やってはいけない。またとああゆう苦しい遺児を出さしてくれるなと政府に言いたい。」
収容所でも、家族を失ったということは、砲弾に当たって死ぬことだけが戦争ではないのですね。戦争は、あらゆる日常を破壊していくのだということですね。