シリーズ「遠ざかる記憶、近づく足音」です。70年前の沖縄戦、本島南部で地上戦が続く中、北部では「捕虜収容所」での生活を始まっていました。辺野古崎にあった大浦崎収容所で生まれた一人の医師の思いを聞きました。
名護市辺野古のキャンプシュワブ。新基地建設を止めるための座り込みが、328日目を迎えた先週土曜日。
平安山英盛さん「お年よりが多いんですよ。だから休み休みやらないと。」
ことし70歳を迎えた、平安山英盛さんです。
平安山英盛さん「(抗議に参加して)1年くらいになりますかね。(どうして?)やっぱり、こっちが僕の生まれたところだということ。」
70年前の辺野古・・・そこには、本島北部の住民たちが「捕虜」として収容された大浦崎収容所がありました。粗末な小屋に人々が身を寄せる収容所生活の中で、平安山さんは生まれました。現在、浦添市内の医療機関で働く平安山さんは、これまで40年以上に渡り、心臓の専門医として救命救急の最前線で働き、県立中部病院の院長も務めました。
平安山英盛さん「一睡もしないで手術して助かる、患者さんのご家族も走り回って血液を集めて助かると言う命の大切というのは、戦争で無くなっていく命の大切さと全く一緒ですからね。」
平安山さんのいた大浦崎収容所の生活とは、どんなものだったのか。当時を知る男性を訪ねました。
渡久地昇永さん「ここで生きる生活ができるのかなと思ったんですよ。」
沖縄戦の組織的戦闘が終わった6月23日以降も、およそ5か月間にわたり捕虜生活は続き、深刻な食糧不足と恐ろしい熱病マラリアに襲われ、1日4〜5人の死者を出すこともあったといいます。
渡久地昇永さん「死体をね、箱に入れるんでもないよ。山から竹を切ってきて、それを編んでこれの上に乗せて、4人でかついでいったんです。(土にそのまま)埋めるんですよ。」
地上戦を生き抜いたにもかかわらず、大浦崎収容所で、無念にも命を奪われていった人たちの遺骨収集は未だ、行われていません。
仕事の合間を見つけては、うるま市からゲート前に座り込みに通い続ける平安山さんは、この日、趣味のオカリナを演奏しました。沖縄戦から70年・・・多くの犠牲者たちが眠る「ふるさと」に、新たな戦争のための基地が造られようとしていること。それは平安山さんにとって、どうしても耐えられないのだといいます。
平安山英盛さん「医者として人殺しにつながるような基地を絶対に造ってはいけない。亡くなった人たちの意思を思うと、ここに基地が造られるのは無念の気持ちで見ていると思う。そういう人たちに代わって、僕らが阻止しないといけないと、こういう風に思っています。」
平安山さんの言葉は、命と向き合ってきた重さを感じます。