〜アバン〜シリーズ戦後70年企画「〜遠ざかる記憶近づく足音〜」です。
沖縄戦の最中でも、戦況を伝えていた新聞記者がいたことをご存じでしょうか。当時の新聞が何を伝えたていたのかを見つめる中で戦後70年を考えます。
今月17日、県内外の報道関係者およそ150人が参加する中、14年ぶりに新聞人の慰霊の集いが行われました。
日本新聞労働組合連合沖縄地方連合会来間信也委員長「刻銘されている方々の新聞の使命を全うしたいという重いの裏腹に戦意高揚に協力せざるおえなかった理不尽の状況がありました。」
そこで語られたのは、新聞人として戦争を伝える側としての加担した過去と戦後、二度と戦争のためにペンを取らないという反省でした。那覇市若狭にある戦没新聞人の碑には、沖縄戦で犠牲になった報道関係者14人の名前が刻まれています。
1945年5月毎日新聞の下瀬豊さんは、従軍記者として沖縄戦を伝えました。
5月12日から18日にかけての那覇首里で展開されたシュガーローフの戦い。その様子を下瀬記者らはこう記事にしています。
(5月12日の記事)手りゅう弾で敵陣突入(5月18日)那覇首里に激戦血で進攻を阻む(5月19日)沖縄の陸上決闘熾烈
日本軍にとって勇ましい見出しが躍っていますが、現実は、多大な犠牲をだした戦いで事実とは、ほど遠い報道が本土には伝えられていました。新聞記者のOBとして慰霊の集いに参加していた親泊一郎さん。沖縄戦当時12歳。検閲のことを覚えていました。
親泊一郎さん「みんな大本営の発表でね権力に批判できないんですよ。その当時全部検閲があったのよ。戦争中はね。それは知っている。小さいながらもね。大変だなと思ってね。」
砲弾の雨が降り注ぐ中、下瀬さんら従軍記者は首里の新聞社壕で日本軍の検閲を受けながら命がけで新聞を発行していました。
下瀬記者の娘永田栄子さん「家族を愛し、仕事を大事に何の罪もおかしていいないのにどうして殺されなければならなかったのでしょうか?」
慰霊の集いには、下瀬記者の娘永田栄子さんも参列していました。永田さんは、下瀬記者が亡くなったとみられる6月18日から8日後に生まれました。家族は、癒えぬ悲しみを抱えながら生きなければならなかったのでしょう。この戦争が悔やまれてなりません。戦争は、決してあってはならないと強く思います。
戦争で家族を失った人がいる一方で、戦争に加担したという悔いを背負いながら生きぬき再びペンを握った記者もいます。牧港譲一さんの父篤三さんは、日本軍に加担した戦争報道を反省し1948年に沖縄タイムスを創刊。沖縄戦のフィルムをアメリカから買い取り上映する「一フィート運動の会」の設立にも参加しました。
牧港譲一さん「戦後生きていく中で常にあんな新聞を書いて、戦意高揚みたいな記事を書いて沖縄の人たちも含めて住民も苦しめたんじゃないかな。それがあの時代だから時代かもしれないけど。悔しいと。」
篤三さんが残したメモには、沖縄戦が何であったのか?なぜ戦争が起きたのか?新聞には、たえず主張というもがあっていいのではないか?と戦争報道への反省とマスコミの在り方への強いメッセージが残されていました。
牧港さんにあまり戦時中のことを多くは語らなかった篤三さんですが、亡くなる寸前にはまた戦争がおこるのではないか?と危機感を示していたと言います。
牧港譲一さん「親父が言った言葉が少し最近なんとなく動きが変なのかなっていうのは感じています。集団的自衛権とかいろんなものが出てきて、それがどんどんすすんでいくとある程度まできたら物が言えなくなる。そんな時代が来るとまずいなって僕自身感じている。」
沖縄戦当時3歳だった牧港さんと12歳だった親泊さんともに新聞記者だった父の背中を見て自身も報道に携わってきました。
牧港譲一さん「(戦争)そういう世の中にしたくない。気持ちは、常に持ち続けていきたい。それは、親父が僕に伝えたかったこともあると思うので。」
親泊一郎さん「ペンを持つ以上は、責任ありますから報道の責任はあるし報道陣としての責任を果たすべきですよ。」
70年前の新聞記者たちの姿から考えるメディアの役割とは何か?重いバトンが今託されています。
戦争中は、教育と報道が大きく歪められ、戦意高揚に利用された事実があります。その反省から戦後のマスコミは戦争のために二度とペンやマイクを握らないと誓いを立てています。戦後70年、報道の責任が、問われている時代でもあります。