20万トン。この数字は何の数字かというと沖縄戦で投下されたとされる爆弾の量です。そのうちおよそ1万トンが不発弾として地中に埋まったと言われています。先月、その不発弾で多くの死傷者を出した事故を風化させてはいけないと石碑が建立されました。事故の関係者が石碑にかける思いを聞きました。
1974年3月2日。当時、那覇市小禄にあった聖マタイ幼稚園ではひな祭りのお遊戯会が行われていました。大勢の保護者が集まり、子ども達のかわいい演技が披露され会も終盤に差し掛かった午前11半過ぎ。
敷地内で側溝工事をしていたところ、鉄杭が不発弾にあたり爆発。園庭にいた数人の園児やお遊戯会を見に来ていた家族は爆風で吹き飛ばされ、硬い地面にたたきつけられました。この事故で3歳の女の子を含む、4人が死亡、30人以上がけがをしました。
あれから40年、聖マタイ幼稚園の園庭にはその事故の記憶を記す石碑が立てられました。戦後30年も経って、地中に眠っていた爆弾が人々の命を奪ったという事実。当時多くの人々に衝撃を与えたこの事故を風化させてはならないという思いからです。
当時の園長鬼本照男(きもとてるお)さんは爆風で吹き飛ばされた女の子を助けようとした当時の様子を、鮮明に覚えています。
鬼本照男さん「(爆風で)園庭に沢山の打ち上げられた泥が落ちてきました。そして落ちた泥の中から、小さい子どもの手が出ていました。手でもって掘り起こし、ピンクの洋服を着ていた女の子を抱きかかえましたけれども既に命はありませんでした。」
この日、園に入っていたお兄ちゃんのお遊戯会を見に、親に連れられて来ていた女の子がいました。棚原望(たなはらのぞみ)さんです。棚原さんは当時3歳。この日は、父親と共に、当時幼稚園があった、那覇市小禄の跡地を久しぶりに訪れました。
棚原望さん「ブランコの前で待っていたんですね、その前に女の子が乗っていたので、この子が終わるのを待っていたんです。でもこの子がずっと乗っていて、私は諦めて滑り台に言ったんですね。で、滑り台を滑り終わったと同時にバッバーンってなったんですよ。で土も全部バーンって被ってもう放心状態です。その場に。」
棚原望さんの父「まー生きている心地しませんでした。爆発でしょ、大変なことになったなー。って(病院では)父兄が来て、「うちの子はどうなっているかね。どうなっているかね」ってみんな騒いでね、みんな自分の子どもを見て、生きているのを見てホッとしてね。」
沖縄戦では、およそ20万トンの爆弾や艦砲弾が使用され、その5パーセントにあたる、およそ1万トンが不発弾として地中に残った言われています。それらの不発弾は、これまで、アメリカ軍や自衛隊などが処理を行っていますが、地中にはまだ、およそ2000トンが、埋まったままで全ての処理が終わるには、およそ70年かかるといわれています。
多くの犠牲が出たこの聖マタイ幼稚園の事故をきっかけに県は、工事をする際、磁気探査を実施することとしました。しかし、6年前には糸満市で工事中の男性が大けがを負うなど不発弾の問題は解決したとはいえません。
不発弾処理隊錦織康二隊長「今は、沖縄での不発弾処理の折り返し地点かかなと。これからも安全確実に処理をしないといけないと考えております。」
棚原さんはこの事故以降、ブランコに乗っていません。
棚原望さん「もうブランコ乗れないです。ちょっと動かされるともう駄目ですね。座るのも怖い。(Q小さい時の記憶が?)恐怖が残っているんでしょうね。自分があの時本当に生かされてたっていうのが不思議なのと、きょうも不発弾の処理がどこかであるじゃないですか。そういったニュースを見るたんびにあの事故は思いだされるので。私の中では。」
棚原望さん父「戦後70年なっても戦争は終わってないって感じね。まるであの時は戦争、戦時中の出来事みたいだった。」
聖マタイ幼稚園に建立された石碑には聖書のこんな一文が添えられました。「平和を実現する人々は、幸いであるその人たちは神の子と呼ばれる」
慰霊祭参加父「後からまた(不発弾が)いくら出るか分からないんですが、もう80もすぎました。まだまだあるみたいですが、そこにいらっしゃる方は爆弾を枕にして寝ているかもしれない。私は思っています。」