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戦後70年企画「遠ざかる記憶近づく足音」です。

沖縄戦当時、25歳の青年だった元日本兵の男性が今、伝えたい想いを、大矢記者が聞きました。

近藤一さん「(Qきょうは嘉数の高台にどうして来ようと思ったんですか?)ここは私が一番最初に米軍と戦った場所ですから」

私が元日本兵の近藤一さんと出会ったのは、去年6月でした。沖縄本島で地上戦が始まった直後、4月9日の夜明け。突然始ったアメリカ軍の攻撃。雨あられのように弾丸が飛び交う中、近藤一さんは、必死の抵抗を続けていました。

近藤一さん「狙い撃ちをしながら、(米兵が)バターッと倒れると、米兵が「ママー、ママー」という声が聞こえるんですけどね、やったーと。人を殺すというのは何も(感じ)ないんですね」

近藤さんは当時25歳。今の私と、同じくらいの年です。人を殺すこと、人が殺されることを何とも感じなかった沖縄戦とは、一体なんだったのか。もっとお話しを聞きたくて私は今年、三重県に暮らす近藤さんを訪ねました。

コーヒー店の店員さん「いつもこのままなんですよ、お喋りすることもなく。もうずっと。(コーヒー)出したらずっと新聞を読まれている」

近藤さんが毎朝過ごす喫茶店で、この日、読んでいたのは、70年前の戦争を生き抜いた同じ元日本兵の記事、そして、集団的自衛権に関する記事でした。

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近藤一さん「国を守るとよく言うけど、国を守るとは一体なんだろうなと、私なりにいろんな思いがあるんですね」

戦後、会社勤めをし、子どもたちを育てている間、近藤さんが、戦争体験を話すことはありませんでした。しかし、定年を迎え、だんだんと戦争を知らない人たちが多くなる中、人間性を失う戦争のあの醜さを伝えなければと思うようになったといいます。

近藤一さん「(Qいまの私からしたら、たとえば赤紙みたいのがきて、すぐ戦争に行きなさいと言われたら、嫌ですし、逃げ出したいと思うんですけど・・・。)その当時は全然ない。それは徴兵で入隊するうちは、おれは立派な日本の軍人だってね」

20歳で徴兵された近藤さんが最初に派兵されたのは中国の戦場でした。ある日の「訓練」のこと、上官が、近藤さんら新兵たちの前に、両手を縛られた2人の中国人の男性を立たせました。

近藤一さん「突け-と。言われてダーと走って、突き刺した。可哀想だとか、あの人も親があって、子どもがあってと、そんな考え全然ないの。ただ、普通のわら人形を突き刺すように簡単に突き刺す。だから非常に・・・なんていうかね、殺人・・・っていうかね、そんな兵隊にそこで、がーっと育てられた」

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やがて帰国命令が出ましたが、到着したのは、ふるさとではなく、沖縄でした。圧倒的な戦力をもつアメリカ軍に対し、近藤さんたちの武器は、明治時代から使われていた三八式歩兵銃。「いつかは援軍が来てくれる」そう信じていた思いは、やがて「大本営は一体何をしているのか」という疑問に変わって行ったといいます。

近藤一さん「こんなバカな戦争にね、行った若い者はね、本当に、無駄死にというかね。あと5分、10分で自分は亡くなるんだと分かっていても、俺は切り込みにいくよと。これはお別れだなと。死ぬと言うことが分かっていても、命令されれば行くんだと。そういう思いでみんな亡くなった・・・そういう、最前線の苦しい想いとか、酷い戦争の状態は・・・今の日本国民は知ろうともしないし、何とも思っていない。」

250人の部隊で、生き残ったのは11人。近藤さんは、戦後、新聞や本で、沖縄戦が、本土決戦の時間稼ぎのための捨石作戦だったと知ることになります。

近藤一さん「我々は捨てられた兵隊だと。その考えは全然変わらないです。彼ら(政治家)が戦争を始めても、犠牲にはならない。我々、貧乏の人、末端の人がみんな犠牲になる。こういう図式を絶対に変えなきゃいかんというのが私の本音なんです。」

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「国に捨てられた」という近藤さんの言葉が胸に刺さった私は、一方で、なぜ、当時の人たちは戦争を止めることが出来なかったのか、ずっと疑問に思っていたことを問いかけました。

近藤一さん「国家を批判するとか、軍隊を批判するという頭はちょっとでもないわけです。ただひとつに、国家を守る、家を守る、そのためには相手を倒しにいかないけないと。これだけ一直線、横は見えていないんですね。」

近藤さんの話は、決して70年前の昔話ではなく、それを忘れずにいまを生きていくことが、戦争を知らない私たちに与えられた責任なのだと感じます。