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4月1日は沖縄本島で地上戦が始まった日。シリーズ戦後70年企画「遠ざかる記憶・近づく足音」。きょうはアメリカ軍上陸の地となった読谷村から中継でお伝えします。

読谷村渡具知の泊城(とまりぐすく)公園に来ています。ことしで戦後70年。沖縄戦の取材を進めている時、ある1本のフィルムに出会いました。

この映像は1フィート運動の会が戦争の実相を伝えるため、およそ30年間にわたり集め、伝えてきたものです。4月2日、読谷村と説明のあるこの映像に三線を持って歩く少年の姿がありました。なぜ少年は、この状況で三線を持っていたのか。少年の手掛かりを探すため、このフィルムを読谷村の方々に見てもらいました。

男性1「この写真嫌ですね、思い出して怖くてね。怖い所じゃないです。怖さを通り過ぎますよね。捕虜された時のあの怖さ。」

男性2「三味線持ってるんじゃないの。」「ほんとだ!」

男性3「しかし戦争で三線もって歩くなんて。想像もつかないけど私には。」

男性4「昔は家宝で床の間に置いていたんだよ。高級な三味線だったら命の次はこれだよという具合だったから。荷物を持たずにこれだから、家宝に位置づけられた三味線じゃないかね。」

命の次に大切だったという三線を、少年は家族に託されたのでしょうか。

読谷村の村史編集室は、まわりの風景や人々の様子などから、この映像は、捕虜になった人々が石川の収容所へ向かう時ではないかと話しています。

うるま市の資料館には、終戦後、石川収容所で開かれた演芸会の写真が残っています。一番左で、琴を演奏しているのは、仲嶺盛竹さんです。この琴がまだ残っているという情報を聞き、仲嶺さんの息子を訪ねました。

仲嶺貞夫さん「父・仲嶺盛竹は戦争の時に家具とか衣類とか食料とか、そういったものは持たないで。この琴を抱えて名護の源河の山の方に逃げていたと我々は聞いているんですよ。これがやはり一番大事だったんでしょうね。命の次に大事という感じで。そしてこれを抱えてずっと握っていたということなんです。」

戦禍をくぐり抜け命がけで守られた琴。その音色が、70年の時を経て平和の尊さを改めて訴えかけています。

戦後70年 遠ざかる記憶近づく足音 三線を持った少年