金武町に住むある女性の元に、先日届いたある手紙。それは69年前の沖縄戦で失ったと思っていた実の兄からの手紙でした。
その手紙は、戦後ずっとアメリカで保管されていました。手紙が返ってきたきっかけは、現代ならではのネットワークだったのです。
今月1日。金武町に暮らす国場千代さんのもとをひとりの男性が訪ねていました。上原学さんです。
上原学さん「詳細がよくわからないんですよ。まだアメリカにあるから」
見せていたのは、上原さんの元に先月アメリカから送られてきたという写真。そこには古びた手紙が写されていました。
国場千代さん「お兄さんがお父さんに宛てた手紙、これはもう確実」
上原さんは個人のお悔み情報を知らせるウェブサイトを運営していますが、その上原さんのもとに、先月、ある人から連絡が入りました。
『知り合いのアメリカ人が、沖縄戦当時に祖父が持ち帰った手紙を持ち主に返したがっている』
その人が手紙の送り主「山川宗文」さんの名前をインターネットで検索したところ、上原さんが運営するウェブサイトで同じ名前を見つけたというのです。
上原さんが調べたところ、手紙の送り主は国場さんの実の兄であることがわかりました。
国場さん「懐かしいよ、本当。あんたたちがいなかったら泣きたいくらいだけど、我慢している」
国場さんは、その手紙は69年前の沖縄戦当時、アメリカ兵が強制的に持って行ったものと思っていました。
国場さん「(アメリカ兵が)今からこの家を焼くから、日本兵が住んでいるからと言って。うちなんかも持てるだけと言っても大したものもっていないから、それだけを持ち出したら、全部焼かれた。部落全部。手紙だから外人が(日本語の手紙を読めないから)何か秘密ごとのある手紙かと思って、それで持って行ったのかもしない」
国場さんの家があった一帯は、戦後、キャンプ・ハンセンとなってしまいました。
なぜ、アメリカ人がその手紙を持っていたのでしょうか。手紙の持ち主を探していたリサ・エバンズさんに連絡を取ってみました。手紙は沖縄戦当時、海軍兵として従軍していた祖父の形見で、戦後、祖父はこの手紙を大切に保管していたといいます。
リサさん「But during that time, he was walking on the beach, and found several things. He thought it’s interesting, and pick them up. (1945年のある日、祖父が海岸で、落ちていたその手紙などを見つけて、持ち帰ったそうです)」
そして、きのう…。そこには、69年ぶりに見る、兄・宗文さんの懐かしい文字がありました。
『家族ともども元気で働いていますから、ご安心ください』
国場さん「この字をみたら(兄に)直接会って、今元気でいるような気持ちで、会っているような気持ちで、嬉しいやら、懐かしいやら。その気持ちはなんていうの、うちなーぐちで、きーぶるだっちゃーする(鳥肌が立った)」
封筒には、国場さんに手紙を返したリサさんからの手紙も入っていました。
そこにはアメリカ軍によって国場さんの家が焼かれたことをとても悲しく思っていること、そして今回、インターネットという技術の進歩によって、持ち主を探し出せたことにとても驚いていると書かれていました。
それは、国場さんにとって、時を越えた、思いがけないプレゼントでした。
国場さん「平和だからこういう連絡もできるからね。親切に届けてくれて、ありがとうございましたと伝えたい」
国場さん、本当に嬉しそうでしたね。届いた手紙は、父親の仏壇に見せたいと話していました。