きょう8月22日は、70年前、子どもたちを多く乗せた疎開船対馬丸が撃沈され、およそ1500人の命が奪われた日です。慰霊祭があったきょう、参加者は様々な思いで不戦を誓いました。
学童780人を含む1485人が犠牲になった対馬丸の撃沈事件きょう、70年の節目を迎えました。慰霊祭には生存者や遺族、関係者が参加。不戦の誓いを新たにしていました。
この中に、今回初めて慰霊祭に参加した人物がいました。対馬丸の乗組員で、通信士だった安原秀典さんです。安原さんは、対馬丸についてこの70年、家族にさえ沈黙を守り続けました。
安原秀典さん「(あの時のことは憶えているか)もちろん覚えているよ。こちらから1、2、7と3発当たったわけです。右往左往、泣き叫ぶという子ども達がほとんどでしたね」
「22時15分、対馬丸は魚雷攻撃を受け、損傷を受けた」
対馬丸がアメリカの潜水艦によって攻撃されたあと、最後の電文を打ったのが安原さんでした。
安原秀典さん「なるほどね〜。たくさんいるんだな〜。可哀想にね。彼らの将来を奪った戦争に対して何とも言えない気持ちですね」
戦争当時、安原さんは20歳。戦争への憤りを示す一方でなぜ子ども達の乗る船が攻撃されたかという質問に戦争の悲惨と矛盾を語りました。
安原秀典さん「戦争で子どもの命が可哀想だから、あるいは女子供がかわいそうだからと言って火炎放射器のスイッチを入れないですか?やれと言われたらやらなきゃしょうがないじゃないですか」
きょうの慰霊祭には、生存者の一人、9歳で事件に遭った平良啓子さんの姿もありました。
平良啓子「皇民化教育徹底的に教えられたから、死ぬことが怖くない、美しいものと思っているから。教育されているから、怖いんですよ。」
おととい、鹿児島沖で行われた対馬丸の洋上慰霊祭。そこで平良啓子さんの弔辞が読まれました。代読したのは、啓子さんの娘次子さん。
平良次子さんの弔辞代読「なんのため誰のために小さな命が海底に沈められているのか。それは愚かな人間が起こした戦争だったのです。」
対馬丸が撃沈されたあの時と同じように漆黒の闇に包まれた海に向かい手を合わせました。
儀間こなみさん「家に帰ってお母さんにただいまって言って、お帰りっていってもらいたくなりました」
平良もえさん「自分と同じ年頃の人達がこの海で亡くなったのは悲しいです」
新里玲さん「平和な世の中を築いて、しっかりちゃんと平和な世界を支えていきたいと思います」
平良次子さん「(体験者の話を)直接子ども達が聞いて、その人の言いたいことを受け止めることができるけれども、(次は)それを誰かが(当事者に)変わって伝えると言う時のために自分達はちゃんと受け止めておかないと」
対馬丸事件から70年。生存者や遺族だけでなく、様々な人々が戦争によって海に消えた命にむかいあっていました。
安原秀典さん「私は助かった。幼い子どもは死んだ。いまどういう気持ちですかと言われても、お答えしようがないです」
平良啓子さん「自分が生きていてすまない、こういうことを考えるから。だから生きているなら、何かをしなければ、平和をつくるために動かなければならない、黙っていてはならないという気持ちになるわけ」
今夜22時12分、対馬丸が70年前に撃沈された、その時を迎えます。