仲村貞子さん「(竹やり持って)あそこにアメリカ兵がいるからばーっていって突き刺しなさいってこういうことをさせられました。」
竹富町に住む、仲村貞子さん。戦後40年近く小学校の教員として教壇に立った後85歳の今でも、戦争体験を語り続けています。
仲村貞子さん「空襲警報〜真っ暗で何も見えない」
仲村貞子さん「小さいころ学校では日本は負けたことがない。日本神様の国。そういう教育でした。女学校の頃も竹やり訓練ばかりさせられてね」
久米島で過ごした小学校時代。教科書は、「ヘイタイサンススメススメ」といった戦争にかかわる記述が多くみられました。
仲村貞子さん「欲しがりません勝つまではってことで、国民は非常に辛抱させられた。それを何とも思わなかったから。洗脳されると恐ろしい」
貞子さんは、教員をめざし、県立第一高等女学校に入学。しかし、憧れの女学校生活は、長くは続きませんでした。
1945年3月。第一高女の先輩達は学徒動員され、貞子さんの父親や兄も戦地に召集されました。母親や姉、妹と恩納村へ避難することになった際、父親からあるものを手渡されます。『刺身包丁』
仲村貞子さん「貞子、捕虜になったら日本の恥だ。捕虜になる前に、まず母を殺しなさい。姉も妹もみんな殺してそのあと自分でやりなさいって。」
軍国教育を受けてきた15歳の貞子さんは父親から、何の疑いもなく刺身包丁を受け取ったといいます。貞子さんたちは、恩納村で身をひそめた後、捕虜となり、石川の収容所に送られました。父親から渡された刺身包丁は、幸いにも、使われることはありませんでした。
仲村貞子さん「私たちは行く末短いですけども子どもや孫はまたあの道をたどってきてはどうにもなりません」
自分を軍国少女にした教育は2度としてはいけない。そのことを胸に、八重山の教科書問題にも声をあげ続けてきました。
仲村貞子さん「国定教科書になると、どうしようもないですよ。そのように進む以外ないですから、だから教科書ってただのよみものではない。」
時の政権が政治的な思惑で、教科書を決めた時代。その恐ろしさを誰よりも知っている貞子さんは、今、どうしても子ども達に伝えたい思いがあります。
仲村貞子さん「自分たちの命は自分たちで守るということ。私、包丁使えなかった、使わなかった、使いきれなかった。それでみんなとあえるんだっていうの、ぬちどぅ宝というのをもっと大事にしたい。」
女子児童「やっぱり戦争は悪いことなんだなとおもって、二度とおきないことを願っている。」
男子児童「人と人が戦争で喧嘩をして…争いにならないようにみんなで助け合いながら平和にしていけたらいいと思いました」。