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今月15日は沖縄の本土復帰記念日。

きょうから4回にわたり復帰とはなんだったのか、そして改めて復帰の意味を考えていきます。第1回のきょうは、43年前、本土復帰への思いを込め当時の屋良主席が日本政府に提出する予定だったいわゆる「屋良建議書」沖縄の思いを込めた建議書は、しかし国に届くことはありませんでした。建議書の作成に携わった元琉球政府職員の当時の思いを取材しました。

平良亀之助さん「建議書でくさびを打ち込んでおかないととんでもないことになるということで、建議書は日本政府にここは提示と言わずに突きつけたと言っていいでしょう」

平良亀之助さん77歳。42年前の復帰当時、琉球政府職員として、屋良建議書の作成に携わったひとりです。1969年、沖縄の本土復帰が決まったニクソン、佐藤会談の日米共同声明以降一気に、復帰に向けた作業が加速します。これを受けて、琉球政府内にも、復帰対策室が新設され、県内新聞社の記者を辞めて間もなかった平良さんも、その復帰準備を進める17人の調査官の一人に任命されます。

しかし、当時、平良さんら復帰対策室のメンバーに対し、外交に当たる日本政府からの情報は少なく、日本政府に対して意見は出すものの、その後の調整などはなかったといいます。

平良亀之助さん「復帰対策室の中に籍を置いている職員でさえわからない。だから行動のとりようがないというのが、実情だったわけですよ」

そしてある日突然、復帰対策室にすでに成案された形で、復帰に伴う関連法案が届きます。

平良亀之助さん「一生懸命やったものが、結果的にもうほとんど沖縄が手足を出せないような状況で、法案が目の前に、琉球政府もこれに同意しないさいというふうに積み上げられてこられた。パーッと見ただけでも、それじゃとてもじゃないが、復帰後の我々はもう納得できませんよと」

琉球政府のトップだった屋良主席は、「総点検プロジェクトチーム」を立ち上げ、研究者や弁護士らを交え昼夜を問わず、問題点の洗い出しが行われます。その後、あまりにも膨大な点検資料は、屋良主席の元で、132ページの建議書として仕立てられることになります。

1971年11月17日、建議書を携えた屋良主席は、東京に向かっていました。しかしその上京する飛行機を降り立った午後3時15分。時をほぼ同じくして衆議院で沖縄返還協定が「強行採決」されたのです。沖縄の思いを届ける前に、国によって、復帰のレールが決められてしまった瞬間でした。

平良亀之助さん「これだけの英知を絞って沖縄の気概を込めて作り上げたものだが、結局は衆議院の特別委員会で、強行採決されて門前払いと。で、マスメディアは届かなかった沖縄の声とか色々ね」

1972年5月15日。政府主催で開かれた復帰式典。平良さんは、広報班長として、那覇市民会館の中二階にいました。

平良亀之助さん「そんな処分されるような復帰に何の感激も何もない。ところがこっちでは抗議県民大会。僕の気持ちは全部あっち側にしかないんだよ。あれ(スピーカーからの声)がいやでも聞こえてくる。もうね。ホントに、この辺が熱くなってね。涙が出る。ものすごい怒りがありありと聞こえてくる。で、僕の気持ちは、それと全く同じ、気持ちは全部あっち、これは仕事だから体はここにあるような状況で過ごしていました」

平良さんは、日本政府が建議書を門前払いしなければ、多少でも気配りがあれば、今の沖縄は少しは変わっていたのではないかと振り返ります。

平良亀之助さん「僕は今もこれは有効だと思い込んでいる。この建議書の柱はそのまま、日本政府に出しても十分、何の矛盾もないぐらいの中身なんですよ。それ裏を返せば沖縄の現状が42年前と何も変わっていないということ」

復帰から42年。県内には、今も全国のアメリカ軍専用施設の74%が横たわったままです。