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フェンスを隔てて細く延びた一本道。その向こうには、闘いの跡が刻まれた土地があります。男性の脳裏にあるのは1955年から始まった砂川闘争。アメリカ軍立川基地の滑走路拡張工事を巡り、土地を奪われまいと抵抗する農民たちと警察が激しく衝突しました。

支援のため学生たちも駆けつけ多いときは6000人規模に。男だけでなく、割烹着姿の女たちも座り込み、「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」を合言葉に立ちあがったのです。

砂川闘争から辺野古を考える

元都学連委員長土屋源太郎さん「これが当時の闘争の現場です。ここから中が基地、それから外が農地だったわけね。こんな立派な柵ではなくて…」

当時、東京都学生自治会連合の委員長だった土屋源太郎さんは1957年9月、無断でアメリカ軍基地に入ったとして刑事特別法違反で逮捕、起訴されました。

砂川事件元被告土屋源太郎さん「我々としては中の基地の強制収容による測量ということでこの前の抗議行動をする労働者、学生がここへ抗議のために押し掛けた。最終的にこれが倒れて中に入った。」

逮捕者は23人。このうち7人が起訴されましたが、この事件が皮肉にも、日本の裁判史上に残る判決を導くことになりました。一審の東京地裁・伊達秋雄裁判長の判決。

伊達裁判長の判決「合衆国軍隊の駐留を許容していることは、憲法第九条第二項前段によって禁止されている陸海空軍その他の戦力の保持に該当するものと言わざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるものと言わざるを得ないものである。」

つまりアメリカ軍の駐留そのものが憲法違反だとして裁判所は土屋さんたち被告全員を無罪にしたのです

砂川闘争から辺野古を考える

砂川事件元被告土屋源太郎さん「正直、これは予想外でした。本音を言うと、判決が出た時は、物凄く感動もしたしビックリしました。」

しかし検察は強行手段に出ました。通常の裁判では、判決に不服がある場合、高裁に控訴しそれで納得がいかない場合は最高裁に上告しますが、この事件で検察は、一足飛びに最高裁に上告。そこであっさり一審判決は破棄され、土屋さんたちは有罪判決を受けたのです。

ところが 2008年、裁判に関わる重要な文書がアメリカで見つかりました。当時アメリカ大使だったダグラス・マッカーサー2世と藤山外務大臣、田中最高裁長官が密談を重ねていたことがわかったのです。しかも、マッカーサー大使は早い段階で最高裁に上告するよう意見を述べていました。

また別の文書には15人の裁判官の意見の一本化を示唆する田中長官の発言が書かれています。

東京大使館発国務長官宛て秘密電報1959年11月5日「最も重要な問題は、15人の裁判官が共通の土俵を造ること。できれば裁判官が一致して現実的な基盤にたって事件に取り組むことが重要だ。」

砂川闘争から辺野古を考える

土屋さんたちは今年「アメリカ軍の駐留は憲法違反」だとした一審判決が破棄され、有罪となった裁判はアメリカの意図が加えられた不公平なものだったとして再審請求することを決めました。1968年、アメリカ軍は基地の拡張を断念。

今回砂川闘争を象徴する土地を案内してもらいました。アメリカ軍の滑走路のど真ん中にあった土地。周囲は自衛隊基地になっていますが、この土地は地主に返されました。厚いコンクリートは剥がされ、専用道路も造られ小さな森になっています。

現場を訪ねた地主と学生たち「大きくなったね、40年経つとこんなになったんだね。植えた当時の写真がね、2,3メートルくらいの苗木というか、木だった。」

土屋さんには、心残りになっていることがあります。当時本土で基地を撤去させる闘争が一定の成果をおさめた一方、その負担が沖縄に押し付けられてしまったという思いがあるのです。

砂川闘争から辺野古を考える

砂川事件元被告土屋源太郎さん「本土では勝ったけれど、結果的には同じ国に沖縄に土地が米軍の飛行場がそのまま増設され、持って行かれた事実が重たい事実としてあると思うんです。それに反対できなかったことが今でも自分の反省としてありますし、現実に沖縄と連帯して戦うということを強く感じるわけね。」