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棚原キャスター「来年で戦後70年ですが、アメリカ軍基地は依然として生活を脅かす存在であり、さらに辺野古の埋め立ても待ったなしの状況。しかし、過去には、沖縄県民の粘り強い抵抗が基地計画を撤回させたケースもあります。」

三上キャスター「25年前、恩納村に都市型の実弾訓練施設が作られることになり、村民の24時間体制の抵抗でついに計画を断念させました。当事の映像から壮絶な闘いを振り返ります。」

Q+リポート あれから25年・恩納村民の闘い

1989年10月。早朝から座り込んだ恩納村の人々。キャンプハンセンのゲートに続く道は500人の怒りで封鎖されました。中に入れなくなったアメリカ軍は沖縄県警に住民の排除を要請。直接対立したのは同じ県民同士でした。

連れて行かれた女性達「沖縄の方でしょう?戦が来てもいいんですかまたも戦が来てもいいんですか?」「自分で歩く!」「触るな!」「そんなだったらあんたは国も守れないよ!」

当事青年団のリーダーだった瀬良垣健さんは現在、恩納区長。現地を案内してもらいました。

三上キャスター「区長さんこの辺に座ってましたよね?」

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瀬良垣健さん「横断幕をもっていた。最初はもう鉢巻も恥ずかしいなという感じだったんですよ。こう手を上げることも恥ずかしかったけど、自分たちの意見を伝えなければいけないということで。向こうに恩納だけがあって。その中腹にその施設ができていたということなんですけど。」

アメリカ軍の特殊部隊が実弾を使って訓練をする施設。それは保育所からわずか500mのところに半分以上作られていました。

恩納岳は、水や薪をとる母なる山。そこが戦後、実弾を打ち込む訓練場になったのは住民には耐え難いことでした。さらに、新たな施設を作るときき、我慢も限界と立ち上がったのです。

三上キャスター「暴力は振るわないというのは決めていたんですか?」

瀬良垣健さん「決めてましたね。無抵抗の抵抗、暴力は絶対やってはいけないと。最後まで頑張るんだということを確認して逮捕者が一人も出ないことを。顔もちゃんと見せていいんだよということで。」

恩納村の反対闘争は新聞でも連日取り上げられました。監視は24時間体制。婦人会が毎日炊き出しをし、サイレンが鳴ればあっという間に200〜300人が結集したといいます。

闘争を指揮した長嶺勇さん。当事の村民は熱く、後ろ向きになる人は一人もいなかったといいます。

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長嶺勇さん「地元民が自分たちの村を守るって言う戦いでしたから。そこにはすごい誇りがあるわけですよ。闘う一人ひとりの中にね。沖縄の人がそういう想いを行動にさえ移せば勝てると思っている。全く悲壮感なかったですよ。」

女性も積極的に座り込みました。中でも印象的なのは、勇敢なおばあたちの姿。伊芸トミさんは、今もご健在でした。

伊芸トミさん「みんなね。すぐ出られるような格好をして、畑にいようがどこにいようが。きちっと洋服もつけてあっちがブーってなったらもう、夜中であろうが昼であろうが一生懸命いってみんな阻止するって。」

三上キャスター「怖くはなかったですか?」

伊芸トミさん「全然怖くはなかった。怒りに燃えてるんだから。悔しかった。悲しい言うことはないけど。今見ても涙が出る」

沖縄の警察が軍に加勢したことが悔しかったとトミさんはいいます。

伊芸トミさん「お前たちどこから給料もらってる。おんなじ日本人でしょってこんなに指差して。あっちはまっすぐ。絶対に返事しない。」

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結局、アメリカ軍は思うように訓練ができないまま、3年後、施設を撤去すると発表。木材一つ残さず、村民は完全勝利したのです。

25年前のビデオを、先週、地域の人たちに見てもらいました。

若い人たちは「見せてもらって良かったなって。ウンナンチュ、凄いなあと思います。」「ありがとうって感じです。あの時、守ってくれて。子孫のために。」と話しています。

続いて、オスプレイの飛来に抗議する人々を描いたQABの番組を上映。恩納区の人々はまるであの時と同じだと見入っていました。

恩名区の人々は「涙が止まらなかったです」「勝ち取った気持ちはもう。今の方々をみてると、思い出してしまって。涙しか出てこない。歯ぎしりするやらね。でも、負けたらだめです。」と話しています。

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瀬良垣健さん「みんなで頑張ってきたことを思い出してですね。沖縄の人同士が苦しめられているなって。」

棚原キャスター「まさに村ぐるみの闘いで守りきったんですね。古くは昆布闘争、安波のハリアーパッド、いくつも抵抗が実を結んだ歴史があった。今、若い人達は座りこみやデモで何かを変えられるの?と冷めている部分がありますが、こういう歴史が伝わってないのでは。」

三上キャスター「何人かのお年寄りは、役に立てるなら辺野古にも行きたいとおっしゃっていたんですが、日米、両方の政府が決めたからもう仕方がない、と考えずに、ここは子孫に残す我々の土地なんだと堂々と主張する先輩達の姿勢を学びたい。」