2年前から県の臨時職員として、海洋調査船で働く藤巻衛司さん。時には、与那国島の沖合まで行ったりと、沖縄の海で仕事をしています。しかし、その胸中には、いつも遠く離れた故郷の海があります。
藤巻衛司さん「福島の海で育ったようなものだから。毎日、ほぼ毎日海を見て、生活していたので、やっぱり恋しい」
3年前のきょう、藤巻さんが生まれ育った福島県相馬市は、高さ9mを越える津波に襲われ、活気あふれる漁師街は、一瞬にして全てを奪われました。
そして3日後の福島第一原発事故。原発から40キロ以上離れた相馬市でも、高い放射線量が測定されるようになり、津波をなんとかのがれた藤巻さん一家は目に見えない恐怖にさらされることになりました。
藤巻さん「外で土いじりが出来ない。松ぼっくり1つ拾おうとしたって捨てなさいと言ってしまう状況で。あの時やっぱり避難しておけばよかったって思うのが嫌だったので。だから沖縄への避難を決めた」
震災から1年。「子どもたちの将来のために」家も仕事も故郷に残し、ゼロから避難生活を始めました。しかし、その生活も年を追うごとに厳しい現実が突きつけらます。
藤巻絵美子さん「やっぱり向こうに家もあって、ローンも払っている状態でこっちに来たので、経済的にも生活面が大変です」
親子5人で暮らすアパートは、県が家賃補助をする借上げ住宅。その家賃補助も去年から1年ずつの更新となり、いつ打ち切られるかわかりません。それでも、3人の子どもたちを守るために、藤巻さん夫妻は沖縄に住み続けることを決めています。
蒼空くん「自転車乗れるようになったよ。補助輪なしで」
藤巻さん「ひらがなもカタカナも読めるようになったし、後は足し算もできるようになったね」
一方で、故郷には今も両親・妹家族が暮らしています。蒼くんたちは、なぜおじいちゃんおばあちゃんと会えないのか知りません。
福島県の中心部から雪深い山道を走ること、およそ2時間。藤巻さんの故郷・福島県相馬市。港に建つボートの販売店、ここが藤巻さんがお父さんと営んでいたお店です。津波を受けましたが、今も両親と妹で店を支えています。
母・藤巻ふく子さん「ちょっと身長伸びたかな」妹・前田さおりさん「子どもの成長は早いから。順応性もあるし」
久しぶりにみる孫の姿に嬉しそうな藤巻さんの両親。母・ふく子さんは、沖縄に旅立つ息子家族を送り出した、あの日の気持ちを今も忘れることができません。
母・藤巻ふく子さん「これから育っていく子どもたちのことを考えたら、沖縄に行きたいと行った時に、反対はできなかった。相馬にいて大丈夫ということは私も言えなかったし。子ども一人一人が判断して決めて行動するしかないという見方しかできなかった」
藤巻さんの妹、さおりさん。さおりさんにも今年8歳になる息子がいます。
妹・前田さおりさん「正直なところ、私も同じく子どもを持っているので、私も同じく避難できたらなと思うんですけど。とりあえずできることを一つ一つ。健康診断だったり。気にして生きていかなきゃって思っている」
悩んだ末に相馬で生きていくと決めたさおりさんは、子どもの将来への不安を抱きながら暮らしています。
震災から3年。毎年稲穂が揺れていた広大な田んぼは、津波の塩害で何も植えられず。相馬名物の海苔やアサリは、放射能の影響で今も獲ることができません。
父・藤巻健二さん「津波だけでしたら直せばいい。何とかできる。そうじゃなくて、セシウムが入っている以上、何ともできようがないんですよね。怖ろしいの一言かな。家庭も破壊する。何もかも」
原発事故がもたらした悲しい現実。福島の自然を愛する、優しい子に育ってほしいと、麻鈴(まりん)、蒼空(そら)、大地(だいち)と名づけられた藤巻さんの子どもたち。故郷に帰れる日は来るのでしょうか。
蒼くん「あとは・・・雪。」絵美子さん「雪?雪がみたい?」蒼くん「うん。」絵美子さん「こっち降らんもんね、雪。」蒼くん「うん。」