69年前の10・10空襲で、県内全域で600人とも700人ともいわれる人命が奪われました。那覇市では10日、およそ100人が参列して慰霊祭が行われました。
体験者が高齢化し、記憶が遠ざかる中で、あの空襲は私たちにいま、何を伝えているのでしょうか。
10・10空襲を体験した吉嶺全一さんは「飛行機が飛んできたのは、こっからだったんですよ。こっから飛んできて、私の頭上を飛んでいって、ちょうど大道の近くまで来た時に、ぶーっと急降下して、ぼんぼんと(爆撃)して行ったんだよ。それが私がみた10・10空襲なんです。」と話していました。
69年前の10日、沖縄全土を襲ったアメリカ軍の大空襲。県内全域で、死者は少なくとも600人、負傷者も続出し、那覇市はおよそ90%が焼失しました。
吉嶺さんは「1回でもう全部焼野原になりましたよ」と話します。
那覇市首里に暮らす吉嶺さんは、当時小学6年生でした。空襲で故郷は火の海と化しました。「(日本軍の)高射砲は最新式で、100発100中だと(学校で)先生がいっていたけど、ひとつも当たらなかったからね。もう何千発も打っていたんだよ。空がまっ黒くなるくらい。一体どうなっているんだろうと、あれから疑問になりましたね。」と話しました。
10日の午後には、那覇市の戦没者の慰霊祭が開かれ、およそ100人の遺族が参列しました。現在では、10・10空襲を語れる体験者はわずかしかいません。
慰霊祭に参加した女性は「憲兵隊の人たちがね、「本物(の空襲)ですよ。演習じゃないですよ」ということで、新聞か何かを(ちぎって)飛ばしてからね、風の向きを見るわけ。反対方向に逃げようと言って。」と話しました。
92歳の高齢の女性は「当時ね、23歳かね(臨月で)お腹抱えて。歩いてやんばるまで逃げましたよ。戦争の話したくないの。いや。」と話していました。慰霊祭の最中、上空をオスプレイが飛んでいました。
吉嶺さんは「こんな悲惨な場所でしたけど、(今)何の傷跡もないからね、いまの人たちそういう話をしても『ああ、そうか』としか思わないと思うんだ。」と話します。
吉嶺さんは今、若い世代に、あの戦争の教訓を伝えたいといいます。「戦争というのは無差別に殺している。民間人というあれは全くないと。人殺し(戦争)は人殺しなんだよね。勝った方も、負けた方も。戦争になると人間は人間でなくなるというでしょう」と話していました。