キムさん「お酒はちょっと一杯も飲まないの。タバコは一日一箱吸う。 」
那覇空港から移動の車中。長く続くアメリカ軍基地のフェンスを眺めながら片言の日本語で話し始めたキムさん。彼女が日本語を覚えたのはおよそ70年前の戦場でした。
キムさんは1941年、14歳のとき、台湾や中国、シンガポールなどアジア各地の戦場に連れて行かれ、日本軍の慰安婦として働かされたのです。
キムさん「軍服を作る工場で働くことになると言われました。1人、2人を相手するのではなく、土曜日は正午から夕方5時まで部屋の前には軍人が列を作ります。8年間も軍人たちに奴隷にされ、踏みつけられる生活を送って来ました。未だ一言も謝罪を受けていない、この悔しさがわかりますか。」
さらにキムさんは娘が慰安婦にされたことで、家族が生涯抱えきれない苦しみを背負わされたと話しました。
キムさん「『嫁に行かない』と言ったら、どうしてか聞かれるようになりました。周りの人には言わなかったけれども、母にだけは言いました。自分が産んだ子がそんな目に遭った、先祖に合わせる顔がない、色々な苦悩を抱え、母は苦悩の末に心臓病を患って亡くなってしまいました。」
元々2カ月前から決まっていたキムさんの来日。図らずも橋下発言の時期と重なりました。日本の政治家たちの言葉に傷つけられながらも、高齢のキムさんたちが予定通り来日した背景には、平和憲法を変えようとしている日本政府、政治家たちが弱い者を公然と攻撃してしまう日本社会を案じ、警鐘を鳴らしたかったからだといいます。
キムさん「今の日本政府の対応に対して怒りを感じます。橋下さんだけでなく、そういうことを考えている人はもっとたくさんいると思います。もっとちゃんとそうじゃないという話を奥の所で伝えて。」
平和行進を締めくくる県民大会。キムさんは土砂降りの雨の中およそ3500人を前にこう訴えました。
キムさん「幼い少女がこの世に生まれ、花開くことさえできないまま、奴隷のように扱われ、踏みにじられたことを考えてください。現在の日本政府は憲法を変えて、戦争のできる国にしようとしています。皆さんが力を合わせ、今の総理や橋下大阪市長が私たちに暴言を吐くことがないようにしてください。戦争のない平和な地をつくってください。」