今月28日、政府主催の「主権回復の日」の式典が開催されます。ニュースQプラスではきょうから4人の方にお話を伺います。主権回復か、屈辱か。4・28をどう見るかマイクを向けました。きょうは、初代知事屋良朝苗さんの秘書を務めた大城盛三さんに聞きます。
大城盛三さん「沖縄を担保にして日本が独立した日になるという訳ですよね。担保にしたというのはアメリカが委任統治にした訳でしょう。日本国から切り離された訳でしょう」
大城盛三さん(82歳)。復帰前の1968年12月から復帰後の1973まで、公選の行政主席と知事を務めた屋良朝苗さんの特別秘書官として支え続け、復帰前後の激動の沖縄を見続けてきました。
大城盛三さん「アメリカが統治するという文書で(沖縄は)完全に日本でなくなった訳です。では沖縄県民はどこの国の人であるか、アイデンティティーが曖昧になった訳です」
今月28日、政府主催の「主権回復の日式典」が開催されます。
大城盛三さん「ものすごい違和感を感じます。アメリカに寄り添ったような形で、ずっと歴史は動いてきている訳です。そうするとこの28日というのは、今、主権回復したとお祝いしようという訳でしょう。私は『屈辱の日』だと受け止めざるを得ない」
「屈辱の日」。大城さんは屋良さんがこの言葉を何度も使って沖縄の県民感情をあらわしていたといいます。
復帰に向かうなか、1969年11月、屋良さんが当時の佐藤栄作総理の前で訴えた思いがあります。このなかで屋良さんは5回も「屈辱の日」という言葉を使っています。
『われわれ百万県民は、祖国の独立と引き換えに、その意に反して半永久的に異民族による屈辱的な支配を受けなければならなくなったわけであります』
屋良さんの思いは、基地の本土並みと無条件撤去でした。しかしサンフランシスコ講和条約で日本が独立したのとは対照的に、アメリカの統治下に切り離されたのです。
その間、沖縄県民の苦しみは続き、復帰を迎えます。大城さんは「表向きは本土並み復帰だっということになっているが、中身はそれとは違って、沖縄の基地を自由使用できることだった」と指摘します。
さらに大城さんは、屋良さんの思いに反し、沖縄は日米安保体制を維持するため、日本政府の政策の手段に使われ続けているのが現状だと言います。
大城盛三さん「今、67年あとに見ますと(沖縄の基地は)悪くなっていると思います。いわゆる言葉で簡単にいえば、守備の基地から攻撃の基地になっている」
政府主催の式典が迫る中、大城さんは「主権を取り戻したと喜んでいる時期ではない」と話す。
大城盛三さん「(Q:屋良さんが今生きていたらどう考えたと思われますか?)私は、屋良さんに聞かなくてもだいたいわかります。『やるな』という。『こんなことやるな』と。これはこれは沖縄県民を差別するような行事。屋良さんならば、当然、要求したものが通っていない訳ですから、これを屈辱の日だということであるということは、これは屋良さんとしては耐えられないと思います」
屋良さんの思いを継ぐ大城さん。沖縄戦を体験し、日本から切り離されてアメリカ軍の統治下におかれた沖縄の歴史、そして県民感情を語り続けていく考えです。
大城盛三さん「逆にこちら沖縄側は心を一つにして、屈辱の日だということを再認識して、そういうことから沖縄をどういうふうにつくるか、一歩、踏み出す時期だと、絶好のチャンスだと私は思います」
宜野湾市での抗議大会に、大城さんは参加する予定です。