その辺野古アセスはどんな経緯をたどってきたかを、振り返ります。
国が辺野古環境アセスの事前調査に乗り出したのは2007年5月。海上自衛隊の掃海母艦まで投入する、物々しいものだった。
3か月後、国はアセス手続きの第一歩「方法書」を県に提出したが、県は一時受け取りを保留。行政機関同士の文書のやり取りは、初めから異例の展開を見せる。環境問題の専門家でつくる県の審査会は「大量の追加資料提出などがあり、的確な答申は困難」だとして、方法書の書き直しを求めた。しかも、この追加資料に対して住民が意見を述べる場はなかった。しかし手続きは続く。
2009年4月には準備書を提出。この段階でもオスプレイ配備は明記されず、正式に伝えられたのは2011年6月のことだった。
そしてわずか半年後、未明の県庁に評価書が搬入された。オスプレイ配備はここで初めてアセス手続きに登場する。
沖縄大学・桜井教授「評価書は影響は少ないという『アワセメント』に終始しております。論理性科学性が全く欠如しております」
元WWFJの花輪さんは「全体としてとにかく非科学的な内容になっていまして、科学的でも合理的でもない。これまでにやられた最低の環境アセスということができます」
「住民生活や自然環境の保全は不可能」とする異例の知事意見が出された評価書は、およそ1年間かけて補正された後、2012年12月に県に提出され、一連のアセス手続きは公告・縦覧を経て終了した。
スタジオには取材した儀間記者です。廷内はどんな様子だったんですか。
儀間記者「判決が言い渡されると法廷にはどよめきが響き渡り、原告の住民は怒りと失望、そして落胆の表情を浮かべていました」
今回の最大の争点は住民に「意見陳述権」が認められるかどうかでした。原告側は、いわゆる「後出し」で十分に意見を伝える機会が得られなかったと主張してきました。その究極が「オスプレイ」だったわけです。
これについて裁判所はあくまで手続上、住民や知事の意見を聞くように定められているだけで、住民側にそのような「権利」が認められているわけではないと判断し、中身には全く踏み込まず、入り口論で訴えを却下しました。これは知事意見も同様だとしています。
そして、損害賠償についてもこうした権利がない上に、実際に事業が実施されるかどうか確定していない現状では、現実には環境被害を受けていないとして棄却しました。これは裏を返せば、被害を受けてから訴えろと言っているようなものです。
原告にとっては非常に厳しい内容です。
儀間記者「裁判所は今回、実際に現地で視察する現地進行協議を行いましたし、原告側もアセス手続きの非科学性・非民主性を綿密に立証してきました。それだけに、中身に踏み込まず入り口で全てを終わらせた裁判所の判決に、日本の司法の遅れを感じました」