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復帰40年リポートです。沖縄戦の後、この島には67年間アメリカ軍基地が存在していますが、基地があったことで出会った男女も多くいました。復帰前後の時代、アメリカ兵で結婚し、海を渡った女性達に会いに行きました。

アメリカ合衆国南部にあるテキサス州アーリントン。計画的に作られた都市型の町並みにハイウェイが横切り、ダルビッシュ有投手が在籍するテキサスレンジャーズの本拠地としても知られ、約36万人が暮らす南部の大都市。

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テキサス州には沖縄県人会が8つほどあり、各地で県人の交流の絆を深めている。そのひとつ、かりゆし沖縄ダラステキサス県人会には30人余りの会員がいて、この日は私たち取材班の歓迎会も兼ね、会員が集まりました。

女性達のほとんどは復帰の前後、沖縄で駐留するアメリカ兵と出会い結婚し、アメリカに渡りました。当時、沖縄ではアメリカ兵と交際することに周囲の目は冷たかったといいます。

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美代子・ハモンドさん「うちの兄弟、お兄さんは絶対に(結婚には)反対だったんです。やっぱり外人というあれで、うちたちは大きな家族だったので、家族の顔を汚すと反対されたんです」

美代子・ハモンドさん。海兵隊員の夫と、復帰の前の年に結婚しました

ラリー・ハモンドさん「私は彼女にゲート通りの散髪屋で会いました。美しいで女性だった。今でももちろん美しいけどね」

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勝子・グロウトさんは1964年に海軍にいたビルさんと結婚。しかし、結婚は決意したものの、英語も話せない不安から、出国の時にはこんな出来事もありました。

勝子・グロウトさん「とっても心配だった。(アメリカにいくために)沖縄から東京に着いたとき(空港の中で)逃げまわって。沖縄に帰ろうとしたら(夫が)帰さなかった。ダメダメ、君はあっちにいくんだよって言われて」

多くの女性達は当初言葉もうまく話せず、アジア人への差別も根強いアメリカ南部の社会で苦労を余儀なくされたといいます。しかし、そんな彼女達を支えたのは家族でした。

勝子さん「でも子どもたちを見ていると、こっちを自分を土地だと思わなくっちゃって考えてました」

美代子さん「自分の子どものためにもやっぱり沖縄に帰っちゃいけないということで。やっぱり子どもにも気を強く持たされるし」

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この、かりゆし沖縄ダラステキサス県人会をまとめるのは、トモ子・ジョンソンさん。夫のラリーさんは元海軍で、現在は地元で不動産業を営み成功を収めています。

ラリー・ジョンソンさん「いろいろな文化やグループは集まるでしょうし、この絆は沖縄だからこそできることであると思います」

トモ子・ジョンソンさん「(県人会の絆は)自分の力にもなりますね。自分もこれくらいのことで泣いてはいけないとね。そう思います」

女性達の絆は広がります。ジョージア州アトランタ。

ここにも県人女性が元気に暮らしていました。昌子・コンさん。元陸軍の空挺部隊にいた夫のウィルさんと1962年に結婚、現在二人の子どもと孫達に囲まれている。

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昌子・コンさん「(Q:アメリカに行くことでアメリカンドリームのような、もっといい暮らしができるという夢を抱いた女性が多くいたと聞きましたが)私もそうでした。テレビでしか見ないけど、ああいう生活もできるのではと、そういう夢はありました」

当時貧しかった沖縄社会を離れ、アメリカ人と結婚することで夢をつかみたいと願った女性も多くいました。決して、すべての女性の夢が叶ったわけではありません。夫からの暴力や離婚など、悲惨な話も数多くあります。

祖国復帰から40年、様々な思いを抱きながら故郷沖縄を思い、ウチナーンチュという絆を太くして、沖縄の女性達はアメリカの大地で力強く根を張っています。