豊浜さん 県民大会当日「53年前に宮森小学校に落ちた事故、あの教訓は決してオスプレイを入れてはいけないという、そこに結論付けられると思いますね」
うるま市石川から大会に参加した豊浜光輝さん。豊浜さんは53年前の事故を忘れることはできません。エンジントラブルを起こしたアメリカ軍の戦闘機がうるま市の宮森小学校に墜落。児童含む、18人の尊い命が失われました。
事故当時、教職員をしていた豊浜さんは亡くなった子供たちが運ばれる、遺体安置所を担当していました。
「親達は、わが子を捜すのにまず子供の教室をたずねそれから校庭を血眼になり名前を連呼しながら駆け足で捜しまわる。」「学校にもいない、家にもいない、最後に捜すところは遺体安置所だった。そこで我が子と対面したときの叫びと涙は私はどう証言したらいいかわかりません」
豊浜さん「こどもがでたぞ、こどもがでたぞっていう声が僕のところまで聞こえる」「こども二人は友達だったらしい、折り重なって焼け跡から出てきた」
県民大会の様子を自宅から見守る女性。豊浜さんが出あった遺族の1人、うるま市に住む久高律子さんも宮森小学校のアメリカ軍機墜落事故で仲の良かった妹、徳子さんを亡くした1人です。当時、小学2年生だった徳子さんは、燃えて灰となった校舎の下から、遺体となって発見されました。
久高さん「私死ぬとき、とっても辛かったんだよ、苦しかったんだよって、本当はいいながら、誰かに本当は見取られながら、死ぬのが一番だったとおもうけど、そういうことも残さずに、自分の状態が理解できないまま焼かれて死んで」「この子の死んだことを口に出すのが、だんだんだんだん辛くなってきたんです。」
忘れたかった、誰にも話したくなかった記憶。しかし、あるきっかけが久高さんを変えます。
大会当日取材「あいたたたた… あんじゅ(孫の名)言うこと聞かないとお〜ちゃん(自分)どんどんおなか痛くなるよ」
現在、久高さんは末期のがんを患っています。皮肉にも、自分の死に向き合ったことである想いが沸いてきたというのです。
久高さん「何をやればいいんだろう、何のために私いかされているのかって考えたときに」「私はこれをするために活かされてるんじゃないかって、徳子が自分のことをもっと世間に知らせてほしくて私に訴えてるんだろうなって思って」「一番安全でなきゃ行けない学校にジェット機が落ちて、死んでしまうっていうのは、娘達にはそんな思いをさせたくないなって思う」
孫「きょう、なんで鉢巻するの?」久高さん「オスプレイをね、反対するために頑張るぞーって」久高さん「あの事故を繰り返してはいけないし、それ以上に大惨事も考えられるんでね、ぜひああいう風に犠牲者を出したくない」「私達おとなのね、責任のもとにやっぱり子供達、孫達を守るために これから安心して住める沖縄にするためには絶対にオスプレイは入 れてはいけないと思ってます」
ひとたび起きれば、たくさんの人の命を奪い人生を変えてしまうアメリカ軍機の墜落事故。宮森の遺族は強い思いで訴えます。
豊浜さん「なくなったこの人々はね、とくに子供たちはね、我々に何を教えて くれたか。この大人に対してね、何を教えてくれたかっていうのは やっぱり教訓にすべきでしょ?基地問題考えるべきでしょ?」
シュプレヒコール「オスプレイは〜嫌い、オスプレイは〜怖い、オスプレイは来るな、オスプレイは〜だめ」